不安の解消を求める心理的な自己防衛の結果として、「ゼロトレランス」(非寛容)なコミュニケーションが生じるのである。もはや法が役立たずになっていると思えるからこそ、法を超える刑罰と社会的な抹殺を実現する努力によって、悪夢のような時代精神の蔓延に歯止めを掛けようとする……。その際、「いいね!」を介した私刑(リンチ)の黙認は、社会統合の効力をも発揮する。
ただし、この熱狂は一時的なものであって、新旧メディアが上演する劇が終わってしまえば、途端に目の前から消え失せることもまた事実である。これを社会学者のジークムント・バウマンは「クローク型共同体」と呼んだ(『リキッド・モダニティ 液状化する社会』森田典正訳、大月書店)。スペクタクルの目撃者になっている間(クロークに荷物を預けている時間)だけ感情を共有するからだ。供犠でつながる「血祭りの共同体」といえるだろう。
仮にわたしたちが「正直者が馬鹿を見る」時代精神に徹底的に抗おうとするならば、実社会で個別に正しいと思えることを、勇気を持って実践していくしかないだろう。しかしながら、それには多かれ少なかれ面倒なことを引き受けるリスクが伴う。最悪の場合、自分の居場所が脅かされるだけでなく、失ってしまうことも十分ありうる。
賛意のタップだけで正義を遂行してみせる
実際問題として、わたしたちは最も深刻でダメージが大きい身の回りの不条理に手をつける気がないからこそ、ソーシャルメディアをはじめとするネット上で完結するハッシュタグ戦争のように、賛意のタップだけで正義を遂行してみせる振る舞いに傾倒しがちになる面があるのだ。これは本来解決しなければならない課題に対する欲求を、構造的に似ている比較的無害なものに対して発露する仕草に近い。
マスメディアが提供する虚像はその役割を担うことが少なくない(もっと言えば、マスメディア自体が抱える重大な欠陥を覆い隠すためにもマスメディアは虚像を切実に必要としていたりする)。これが近年ますます勢いづいているサイコパスモードと、過熱する上級国民バッシングが仲良く両立する地平を形作っている真犯人であるとしたら皮肉な話ではないだろうか。
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