例えば、累計30万部以上を売り上げたベストセラー『サイコパス』(文春新書)で、著者の中野信子氏が述べたサイコパスの特性「他人に批判されても痛みを感じない強み」は、タフなメンタルを持ちたいと思う人々には競争社会におけるアドバンテージに見えることだろう。P・T・エリオットは、『サイコパスのすすめ 人と社会を操作する闇の技術』(松田和也訳、青土社)で、「自己啓発ビジネスの『出世の仕方』部門の全ては、『普通の』人間がサイコパスのように行動することを可能とするようにデザインされている、とも言える」と喝破した。ここ10年だけでも「サイコパス的世渡り」は、効果的な生存戦略として頭角を現しつつあるのだ。
加えて、もう1つ重要な論点は、昨今少なくない人々が感じている「法が正しく機能していないのではないか」という疑念である。
歴史家のルネ・ジラールは、動物やヒトを神々に捧げる「供犠(きょうぎ)」を「法体系をもたない社会」における「暴力との戦いにおける予防手段」と捉えた。共同体の内部で生じる個々人間の争いや暴力、諍いを未然に防ぐために「いけにえ」が存在するというロジックだ。そして、供犠が失われた近代社会では、「法体系」がその役目を代行する「内的暴力の治療手段」であるとの見方を示した(ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』古田幸男訳、法政大学出版局)。
この仮説を今のわたしたちの社会にあてはめてみると、まったく別の景色が浮かび上がってくることになる。
「法の機能していない社会」が出現したかのよう
池袋暴走事件で上級国民と表現される疑心暗鬼の背景にあったのは、現在の社会が嘘や不正が公然とまかり通る「法の機能不全」に陥っている可能性と、それがむしろ新しい規範として定着しつつあることへの危機意識だと思われる。
要は、犯罪者が特権的な地位を利用し、弁を弄して罪を逃れられる「法の機能していない社会」が出現したようなイメージである。これが実質的に「法体系をもたない社会」のようなカオス(混沌)として映り始めているとしたらどうだろうか。そうすると、いにしえの暴力の予防手段であった供犠が復活してもおかしくはない。
つまり、わたしたちの社会は、刑事司法制度に代表される法体系よりも、人身供犠を切実に必要とするフェーズへと部分的に回帰しているのである。この場合、供犠は治療と予防の2つを兼ね備えているとみていい。それがたとえ虚像であったとしても、社会的制裁の対象であると同時に、見せしめとしての「いけにえ」となるのだ。
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