「勘三郎さんが『アドレな!ガレッジ』(テレビ朝日)という番組で俺が池にハマって『俺らなにしに来たんすかね?』って言ったシーンを、すごく面白かったって褒めてくれたんです。『あの一言で企画が成功したよね』とまで言ってくれました。
たとえ手応えを感じない仕事でも、どこかで見てくれる人がいるんだなと知り、芸人を続けることにしました」
そこで、あらためて自らをかえりみた。HIROさんとクロちゃんにネタをふるクセが染み付いていた。
まずは1人で舞台に立とうと思った。
「結局、おしゃべりが好きだってところに行き着きました。とくに内容は決めず、お題だけ持って1時間話すというイベントを始めました」
イベントは2カ月に1度開催した。
1人で話すのに慣れてくると、ラジオなどに呼ばれたときにずいぶん楽に話せるようになった。
またイベントの中で生まれたネタが注目されて、テレビでしゃべる機会も増えてきた。
だんだん1人でも大丈夫だなと思えるようになってきた。
また団長さんは「自転車芸人」という新たな顔も持った。
そもそもは高校時代に興味を持ったロードバイクを2006年に出演した「関口宏の東京フレンドパークII」のダーツのコーナーで手に入れたのがはじまりだった。
「初めてロードバイクに乗ってみて、こんなに速くて、楽にスピードが出るんや、って驚きました。自転車は、スポーツとして楽しい、プラモデルみたいにいじっても楽しい、コスプレみたいな楽しみ方もあって、さまざまな面白い要素が凝縮されているんですよね。ハマりました」
それからはさまざまな大会に出るようになった。
しかし「温海トライアスロン大会」では落車して、救急搬送されてしまった。右脳と左脳の間に傷が見つかり、しばらくは自転車や自動車の運転は禁止された。
ただ、傷が治るとすぐに復帰し「第3回南紀白浜トライアスロン大会」など大きなレースに出場した。
来年、もしトライアスロン大会が再開されたなら、世界戦の権利をとり世界大会に出場するのを目標にトレーニングを続けている。
「24時間自転車生活」の達成で大反響
そして冒頭でも書いたが、「水曜日のダウンタウン」の企画である「24時間自転車生活」達成も大きな反響があった。
「あの企画では内心『頑張れば2日間はいけるな』って考えてました。そもそも睡眠時間短くても大丈夫ですしね」
ただ、スタッフの人たちはそうは考えていなかったようだ。おそらく5~6時間で全員転んでしまい、解散になると想定していた。
「時間が経つにつれ、だんだんスタッフさんから『早く終われよ』っていう空気が流れてきました(笑)」
まずは技術さんが帰ってしまった。次いで演出さんも帰ってしまい、最後にはロケ車もいなくなってしまった。現場にはほとんど誰もいなくなった。
団長さんはただ1人でぐるぐると校庭を回り続け、24時間自転車生活を完遂した。
「企画が終わった後は、とぼとぼと1人で電車で帰りました(笑)」
そんな我慢対決では、VTRを見ている松本人志さんに
「面白いことまったく言わない……」
と突っ込まれたこともあった。
でも団長さんは、それはそれでいいんじゃないかと思った。
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