実際にはかなり広範囲が崩壊していたため、団長さんの地域までなかなか手が回らなかったのだ。
そして小学校時代からの友人がビルに生き埋めになってしまったと聞いた。
「ビルの外から『大丈夫か~!?』って声をかけました。最初は、ビルの中から返事が聞こえた気がしました。でもその声はだんだん薄くなっていきました」
団長さんは、友達と代わる代わる中にいる同級生に声をかけた。途中、そのビルから女の子と猫が救出されたこともあり、同級生も、
「生きているんじゃないか? 生きていてくれ!」
と願って声をかけ続けた。
だが、願いは叶わなかった。
数日後、西宮の体育館の武道場で、遺体となった同級生と対面した。
「最初は顔がすごい腫れ上がっていたんです。よう見られへんって思ったけど、数日したら腫れはおさまりました。そのときの同級生の顔は、いまだに忘れられません。ちょっと前まで一緒にケラケラ笑ってたやつが、急に動かなくなる。死を見せられました」
団長さんは、震災を経験した以降あまり眠らなくなったという。
「死んだら、起きていたくても起きられない。死んだ後は、永遠に寝ていられる。だから今寝るのはもったいないな、と思うようになりました。最近は年を取ってきて、さすがに寝ないと身体がもたないので寝ていますが、でもいまだに寝るのはもったいないって思っています」
そして団長さんは、ついにそれまで躊躇していたお笑い芸人の道へ進む決意をした。
「人間いつ死ぬかわからん。やりたいことやらないかん、って思いました。お笑い芸人になって、売れなくて苦労するかもしれないけど、死ぬよりきついことじゃないし、と考えました」
お笑いコンビ「安田と竹内」を結成
松竹芸能に入ったあとは、団長さんとは幼稚園時代からの幼馴染であるタケウチパンダさんとコンビを組み「安田と竹内」として活動した。
漫才師としては、なかなか芽が出なかったが、「三菱電機チャレンジワールド トロイの木馬」(フジテレビ)という新番組のオーディションに通った。
当時「電波少年」(日本テレビ)で流行っていた、猿岩石やドロンズが行った大陸横断ヒッチハイクの類似企画だった。
「まあ、パクリ企画ですね(笑)。でも嬉しかったです。フジのゴールデン番組のオーディション受かった!! よっしゃあ!!って。帰ってきたら売れっ子になること間違いなし!!って思ってました」
「アメリカ大陸縦断早押しウルトラクイズ」という企画でアラスカからスタートしてマゼラン海峡にある早押し台までヒッチハイク、飛行機以外の手段で行くというものだった。
当時のテレビ番組は現在よりもずっと過激で、旅の内容も熾烈極まるものだった。
「国境を全裸で渡れるか?って企画をやらされたんですよね。カナダ、パナマはなぜかそれで渡れちゃったんです。でもボリビアで捕まってしまいました」
警察官に、
「麻薬やっているのか?」
と責められ、刑務所に放り込まれた。刑務所の中には土嚢袋が置いてあり、それがベッド代わりだった。
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