日本人に蔓延する「失敗したくない」という病 コロナ禍で浮き彫りになった特有の症状とは
なお、この「失敗してはいけない」メンタルは、言語だけでなく、報道などを通じてもよく感じられます。たとえばイタリアの報道は、自分たちの国で起こることを常に俯瞰で捉え、批判にも容赦がないのがその特徴です。政府や行政によるずさんさが明るみに出れば「イタリアという国はこれだから……」と客観的に捉える。
失敗に対しても同じです。でも同じような報道を日本でやっていたら、きっと非国民的な扱いを受けてしまうでしょう。群れのなかでの一糸乱れぬ統率がとれて完璧な社会というイデオロギー、というか信念が日本には深く染み込んでいると思います。
1964年、オリンピックの東京大会に出場したマラソンの円谷幸吉選手は金メダルへの国民の期待という圧力と、ボロボロになってでもトレーニングを続けなければならないという義務感、好きな人との結婚も許されない立場に絶望し、自ら命を断ったとされます。増田明美さんも、ロサンゼルス大会での競技中に途中棄権したことで「非国民との罵声を浴びた」とお話しされているのをテレビで拝見しました。
失敗や挫折するからこそ得られるものも
人間は失敗や挫折、屈辱から得られた苦々しい感情も経験しなければ、成熟しない生き物だと思うのです。それなのに現代の日本では、そうした感情の動きを「世間体」という実態のない戒律で規制してしまっている。それこそ極端な社会主義や、宗教的な戒律のなかで生きる人のごとく、「失敗」を規制されている。
しかし江戸時代まで戻れば様子は変わります。たとえば江戸の町民文化の象徴である落語では、人の失敗談や勘違い話が人気の噺になっています。人間ならではのすっとこどっこいなエピソードを皆でゲラゲラ笑うことで、自分の生き方のヒントにする。列国と肩を並べることに気負う以前の日本は、失敗や挫折や型破りであることが逆に、社会にとっての栄養となっていたように思えるのです。
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