PCR検査の処理能力はどこまで行っても有限である。不必要なものまで需要を喚起してしまえば、公的医療保険制度で価格が固定されている医療側の需要は、人々の不安と信仰に煽られた非医療の需要に簡単に押し出されることになる。民間検査会社による検査なくして、量的拡充はありえないのだから、非医療の検査需要でこれが占有されることは、本当に必要な医療の検査にとっては好ましくない。
PCR検査の枯渇感がメディアによって強調され煽られる中で、陰性証明というお札(ふだ)への信仰が生まれた。そして、このお札がなければあらゆる社会経済活動を行ってはならないというような雰囲気がいつの間にか醸し出された。決定的だったのは、医療現場がそれに悪乗りしたことで、「専門家集団」の権威によるお墨付きを与えてしまったことだ。
「まやかし」でPCR検査を規範化する愚かさ
このことによって、社会経済活動をする以上はPCR検査しなければならないということが、一部で規範化してしまった。このような「変なルール」が一度できてしまうと、「PCR検査による陰性証明」ということの誤謬を理解していたとしても、宣伝文句として社会的にアピールすることに新たな価値が生まれるという倒錯した現象が起こる。そしてそのこと自体が「PCRなしでは何事も進められない」という教条をさらに補強していくことになる。
長期的に見れば、これは企業活動に新たな錘(おもり)が付け加わったということなのだが、いずれこの「まやかし」に多くの人が気づいた段階で、PCR信仰もあっという間に霧散するだろう。筆者は、情報が行き渡りさえすれば、PCRに関する多くの企業の決定も合理的着地点に落ち着くことを疑ってはいない。
今、雨後の筍のごとくあちこちで勃興しているPCRビジネスは、数年後にはほとんど残っていないだろう。しかし、そこまで待つ必要があるだろうか。指定感染症の指定期間は原則1年であり、1回に限り延長をすることができると定められている。指定されたのは今年の1月だから、この扱いをどうするかはそう遠くなく決定される。常識的に考えれば、二類か五類かの議論もそのあたりをメドに進んでいくだろう。
筆者自身は、冬の流行を把握し終わった来春に結論を出すべきだと考えているが、実際の決定はもっと早いかもしれない。もし五類相当となれば、それは季節性インフルエンザと同等の流行(1500万人の感染者と1万人の超過死亡)を容認するということを意味する。それは、血眼になって無症状者の全数把握を目指す努力そのものが無効化される瞬間である。半年後にはそのような文脈が付け加わる可能性があることを知れば、「巷の拡大論」のようなバカ騒ぎに付き合う必要はないと容易に理解できるはずだ。
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