社交的な人々は「ひきこもる力」をわかってない 大勢と集まったりしない人は何をしているのか

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ぼくの子どもは2人とも女の子です。女の子が育っていくときにいちばん大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということなのではないかと思うのです。それ以外のことは、女の子でもやれば何とかなる気がするのですが、これだけは絶対に不利です。だから余計、気をつけました。

お使いを子どもに頼むくらいなら、自分で買い物かごを持っておかず屋さんにでも何でも行くようにしていました。ほかのことではだらしない、駄目な親でしたが、それは意識してやっていましたね。つまりそれだけひきこもる時間というものを大事に考えてきたということです。

自分の時間をこま切れにされていたら、人は何ものにもなることができません。ゆくゆくはこれを職業にできたらいいな、と思えるものが出てきたらなおのこと、1人で過ごすまとまった時間が必要になります。はたから見ると、何も作り出していない、意味のない時間に思えても、本人にとってはそうではないのです。

ひきこもることで育つ「第二の言語」

ひきこもりが生み出すものについて考えてみます。

1人になって自分と向き合う長い時間をもつことが何をもたらすのかについて、「第二の言語」という考え方に基づいて、説明してみようと思います。

他人とコミュニケートするための言葉ではなく、自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉。ひきこもることによって、そんな言葉をもつことができるのではないか、という話です。

ぼくは、言語には二種類あると考えています。ひとつは他人に何かを伝えるための言語。もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。例えば、美しい風景を目で見て「きれいだね」と誰かに言ったとします。これは、自分の視覚が感じた内容を指し示し、ほかの人に伝える言葉です。自分の心が感じた内容を表現してはいるのですが、それを他人と共有するという要素も同じくらい大きい。これが第一の言語です。

それに対して、例えば胃がキリキリ痛んで、思わず「痛い!」と口に出てしまったとする。このときの言葉は、他人に伝えることは二の次です。つまり、意味を指し示して他者とコミュニケートするためではなく、自分が自分にもたらすために発した言葉である要素が強いのです。これをぼくは、第二の言語であると考えます。

第一の言語は感覚器官と深く関わっています。感覚が受け入れた刺激が神経を通って脳に伝わり、了解されて最終的に言葉となる。つまり感覚系の言語といえるでしょう。

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