幸福論 “生きづらい”時代の社会学 ジグムント・バウマン著 高橋良輔・開内文乃訳 山田昌弘解説 ~2000年を経ても変わらない幸福論
われわれが生きている近代社会の特徴を「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」と称し、独自の時代認識を示した著者が描く「幸福論」は、予想通りソリッド(固体)ではなくリキッド(流体)である。それは「われわれの生きる近代は、すべての流体がそうであるように」、幸福も「長い時間、同じかたちにとどまらない」からだ。
商品の購入という形で幸福の追求を強いられる現代では、人々が幸福の追求を止めれば市場は拡大しない。だから、貨幣の増殖を究極的な目標とするグローバル資本主義は、必需品で満ち足りるソリッドな「幸福の状態」に、欲望を駆り立てるリキッドな「幸福の追求」を不凍液として流し込み続けているのではないか。
バウマンはあらゆる要求は、その要求に応えようとする提供者に犠牲を求め、提供者は犠牲の見返りとして幸福を感じるという。かつて、そうした犠牲はイチゴ好きな子どものために、親はイチゴを我慢して子どもの口で味わうといった類いのものだった。
しかし、幸福追求が消費社会と結びついた現代では、「お金、それも大金をできるだけ費やすことが」幸福を感じる犠牲の意味になったとバウマンは嘆く。この顛末こそ、費やされたおカネの記録であるGDP(国内総生産)の大きさで、幸福の度合いを測ろうとする間違いの始まりに相違いない。
一国の経済活動の水準を表すGDPは、人々の犠牲を示す指標でもなければ、幸福のバロメーターでもない。それにもかかわらず「経済が成長するとわたしたちの幸福も拡大していくと述べる政治家やそのアドバイザー、スポークスマン」は後を絶たない。
日本では生活第一をマニフェストに掲げた民主党政権までもが、成長戦略と銘打って名目GDPの拡大を政策目標に掲げる始末だ。しかし、少なくとも多くの先進諸国においては、GDPはもはやソリッドな政策目標ではない。