大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ
強調されるのは「被害者視線の歴史観」
前川:前回の終わりに、学校外で歴史をどう伝えていくかという問題が提起されました。そうすると、また商業主義や大衆文化の話に戻っていくということになりそうですね。つまり、商業主義、大衆社会に浸透する歴史という素材の問題ですね。
私が最近なんだか危ういなという感覚を持ったのは、『この世界の片隅に』の大ヒットなんです。コミックス、映画、ドラマ、アニメと、まさに歴史総合エンタメなわけですが、作品としてはいいし、普段リベラルと目されている人たちも賞賛していました。ですので、こんなことを言うのは気が引けるのですが、それでも歴史の物語としてはやはり危ういのです。
と言うのも、あの話は徹底的に被害者の視点で描かれていて、加害のストーリーは丸ごとごっそり削除されているからです。しかも、国の関与をうかがわせるところもある。一昨年には、東京千代田区にある「昭和館」で、これは国立博物館なわけですが、特別企画展が大々的に開かれましたし、TBSでドラマが作られたとき、後援の1つは厚労省でした。
要するに、国の後押しを受けて、辻田さんが示唆されているような「つらい状況を乗り超えた私たち」と同じで、戦争になっても「一生懸命頑張っていればいいことがあるよね」っていう話をしているようなものなのです。それで、戦時下の庶民のけなげな姿勢が淡々と描かれています。
いや、私も映画からアニメから何から全部見ましたが、それはもう感動しますよ。朗らかな顔つきで、じっと耐え忍んでいる姿は涙を誘うんです。感動することで被害者視線の歴史観が刷り込まれていくというパターンで、それは歴史修正主義者の大好きな手法です。
ちなみに、ご存じの方も多いと思いますが、1965年に岩波書店から『この世界の片隅で』という新書が出されています。「に」と「で」の違いだけで、内容も同じ広島の原爆をテーマにしているのですが、作品のメッセージはまったく違います。
岩波版のほうは被爆者の体験集です。しかも、在日朝鮮人が被爆者として二重の差別を受けた実態などが収録されている。これは、被害者視線を借りた、戦争と植民地支配の加害に対する告発文として読むこともできます。
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