大衆に消費される「戦争の歴史」が生む問題点 被害者視線ばかりを強調するメディアの危うさ
呉座:平泉澄らの「皇国史観」や、記紀神話にこだわる「つくる会」、『日本国紀』などは明白にこの立場ですが、歴史修正主義とは直接関わりのない作家や評論家であっても、史実性よりも実用性を優先する人は散見されます。だから、歴史学者が当事者となって歴史観を示すことがより望ましい。ただし、学界関係者しか読まない学術誌で発言しても、それは仲間内で盛り上がっているだけです。
歴史の諸学会がしばしば発表する「建国記念の日に反対する」といった政治的声明も「私たちは戦っている」というアリバイ作りに堕してはいないでしょうか。少なくとも論壇誌くらいには進出して発言しないと、一般の人には届かないと思いますが、それをやる歴史学者はほとんどいません。その状況に私は根本的な疑問を抱いています。
学知と社会──外に出ることの意味
辻田:今、呉座さんから、学者も少なくとも論壇誌ぐらいには出ていくべきだという話がありました。その点、みなさんは、論壇というか社会とどのように関わるべきだとお考えでしょうか。歴史学の分野では、学会に籠もる人がいる一方で、逆に、積極的に非アカデミシャンを批判する人もいます。そういう状況をどのように評価されているのでしょう。
あるいは、倉橋さんの社会学の分野は論壇に近く、なかにはほとんど評論家になっている人も見受けられますが、倉橋さんは、学知と社会の中間のようなところで仕事をするとき、ご自身をどう位置づけられているのでしょうか。
倉橋:社会学にはほぼ社会とくっついているような一面があるので、ぼくの場合も基本的にはアカデミアの外に現れる「知」には関心があります。そもそも自分の研究関心が、歴史修正主義というものだけではなく、メディアによってどのように「知」や「規範」が構築されるか、なので。ですから、むしろ自分の発言がどのように流通するのかなどを経験的実験的に観察できるところがありますかね。
前川:私は、まだ院生やポスドクだった駆け出しのころ、歴史学研究会(歴研)に育てられたようなもので、歴研の先生や仲間には、ずっと感謝と尊敬の念を持ち続けています。“社会に関わる歴史学”というのも、「歴研大学」で教わりました。
ですが、そのなんて言うか、歴研で活動していたころ、例えば「科学運動」というような内輪にしか通じないような用語や議論に出くわすたびに、戸惑うことがありました。歴研にとって「科学運動」は、戦時中の体制迎合的な歴史学を総括する重要な概念であり活動・運動方針です。
これを内輪でやる分にはいいですが、いざ“社会に関わる”というときに、もしかしたら自分たちしか共感していない考えの“正しさ”を「わからんお前が悪い」と言わんばかりに“蒙を啓く”やり方に、「上から目線」で畳みかける姿勢にですね、ちょっとついていけないというか、どこかモノローグな感じを否めず、違和感を抱いたものです。
それではダイアローグにならんだろうと。若気の至りかもしれませんが、ずいぶん前に、そういうことを会員向けの会誌に書いたこともあるんですよ。何の反響も得られませんでしたが……。
何度も言っていますが、立場が違ったり、実証史学から見てデタラメであったりしても、歴史修正主義者らが提起してきた問題それ自体は意味があって、それには真面目に向き合うべきだったと思うのです。
ですからこのような本を作っているわけですが、歴史学界全体を考えると、ここらへんをどう受け止めてきたのか。ファクトチェックに口角泡を飛ばすことはあっても、もちろんそれ自体は大事なんですけれども、それで歴史修正主義が問いかけた大きな(国民の)「物語」に耳を傾け、現実社会に真正面から向き合ってきたと言えるのか。
控えめに言っても、歴史学にとって事実と物語というのは、昔からある大きなテーマだったはずなんです。けれども、歴研に連なる一部の人たちは別にして、歴史学界全体に漂い続ける、歴史修正主義に対するこの超然とした態度はいったいどこから来るのでしょうか。
いずれにしても、その意味で、学知の外に出てなんぼのものだというのは、そのとおりだと思っています。私自身がそんな力もなく、これはもう反省も込めての発言なのですが。
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