1970年代に黎明期のシリコン・バレーでウェスト・コースト・コンピュータ・フェア(WCCF)を主宰したジム・ウォーレンによると、1960年代の終わりごろからサンフランシスコを中心とするベイエリアで「フリー・ユニバーシティ」と呼ばれるヒッピー文化の流れを汲む活動が活発になっていたらしい。
これは老若男女を問わず学ぶ機会を均等にシェアしようという試みで、大学に入らなくても何かを学びたい人が自由に学び、教えたい人が教えるというものだった。マッサージやサイケデリックに関する課目もあったというから、きっと講師も生徒もマリファナやLSDをたしなみながら教えたり学んだりしていたのだろう。いかにもこの時代のカリフォルニアという感じである。
彼らに共通していたのは、「世界を変えよう」という情熱である。知識を平等に共有することで社会のヒエラルキーを打ち崩す。自由な学びの場をつくることで管理社会に対抗する。パーソナル・コンピュータもこうした時代のうねりから生まれた。
コンピュータ業界と音楽業界の似た構図
ジョブズたちが会社を立ち上げたころ、コンピュータ業界は1950年代から変わらずIBMが牛耳っていた。当時はまだメインフレームと呼ばれる大型の汎用コンピュータが主流の時代で、ユーザーは航空会社や銀行、保険会社、大学などだった。
IBMの本社はニューヨーク市郊外にあり、その他の会社(バローズ、ユニバック、NCR、コントロール・データ・コーポレーション、ハネウェルなど)もボストンやデトロイト、フィラデルフィア、ミネアポリスといった東海岸に本拠を置いていた。シリコン・バレーにはヒューレット・パッカードがあったけれど、そのころは計測器や電卓が主要な商品だった。
こうした事情はビーチ・ボーイズがレコード・デビューしたころの音楽業界と似ている。当時の音楽ビジネスの中心はマンハッタンで、有名なブリル・ビルディングにオフィスを構えた音楽会社がバート・バカラック&ハル・デイヴィッド、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、リーバー&ストラー、バリー・マン&シンシア・ワイルといったソングライター・チームと契約してヒット曲を量産していた。
またキャピトル、RCAヴィクター、MGM、デッカ、マーキュリー、コロンビアといった主要なレコード会社は、スターになる資質をもった歌手としか契約を結ばなかった。すなわちコニー・フランシス、パーシー・フェイス、ブレンダ・リーといった白人で中産階級のアメリカ人である。
一方、ロサンゼルスの音楽業界は完全にマイナーな存在だった。サーフ・ミュージックをやっているような西海岸の若い歌手やバンドは、「インディーズ」と呼ばれる小さな独立レーベルを頼りに細々とレコーディングを続けていた。