「生産性という呪い」から逃れて生き延びる方法 感性が劣化した「ネオリベ人間」から脱却する
包摂は、単に労働の話だけではない。白井氏は、過去30年の新自由主義(ネオリベラリズム)によって、人間の魂、感性、センスなどが資本に包摂されてしまう事態がもたらされていると指摘する。
国営事業の民営化を進め、大企業をスリム化し、リストラして外注を増やす。外注先を叩いてコストを下げ、利益を増やす。こうして日本的経営の特徴とされた共同体主義は崩壊したわけだが、その中で無縁状態にさらされた人々の間には「役立つスキルを身につけて、他の人と違う自分を打ち出そう」という価値観が広まった。
だがそれは、あくまでもネオリベラリズムによって得をしている資本家にとって都合のいい「ネオリベ的価値観」であり、人を資本に奉仕する道具としか見なさない感覚なのだ。
ところが、制度のネオリベ化は、人間をネオリベ化してしまう。人々は反逆することなく、ネオリベ的価値観を受け入れてしまい、いつの間にか精神的にも支配されていると白井氏は言う。
「ネオリベ人間」の行きつく先
この一例として、名作『男はつらいよ』の主役・寅さんに対する理解力の変化を取り上げた章は、オリジナリティがあって非常に面白い。
昔ながらの共同体的価値観に生きる寅さんは、自分や職人たちの生きざまに誇りをもちながらも、上流階級の資本主義的価値観を見上げては、やはり振り払うという、複雑で、時には真逆の心情も入り混じる人間味あふれる姿を映し出した存在だ。
だがネオリベ化した世代には、この世界観に生きる人間の心情が理解できず、寅さんの言動が「わからない」という。不快に感じる人すらいるらしい。
この現象を、「読解力の喪失」「世代間ギャップ」と片付けることは簡単だと思うが、白井氏は、戦後の日本人の魂が資本の理論によっていかに包摂され、感性が変化してしまったのかという視点で解いた。
「魂が資本に包摂されている」という論点は、本書に通底しており、デコトラ・ブームの終焉、学生の「お客様化」と教育の荒廃、デフレマインドと自己評価の低い「悟り世代」、「働き方改革」という欺瞞、食文化の崩壊など、キャッチーで「知っておきたい!」と感じるテーマを使ってあらゆる角度から論じられている。
なかでも、コンビニ弁当やチェーン店の牛丼、ジャンクフードなどに囲まれて、食文化が崩壊に向かっているにもかかわらず、人々が「味わう」ということを失った貧しい感性の中で飼い慣らされている、という指摘には熱がこもっており、胸に響くものがあった。
人間は、ただ労働して、食料を摂取して、寝るだけの存在ではない。文化的な活動を楽しんだり、美味しいものを味わったり、華やかに着飾ったり、複雑な人間関係の中で情緒を成熟させていく体験をしたりすることも、「必要」のうちだろう。
だが、その「必要」の基準、人間の基礎価値は、資本による魂の包摂によってどんどん引き下げられているのだ。このまま骨の髄までネオリベ人間になってしまっていいのだろうか。
これからの世界を「人間」として生きていくためにも、一度『資本論』を手に取って、資本主義についてとことん知ってみようか、そう思わせる一冊が『武器としての「資本論」』である。
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