「生産性という呪い」から逃れて生き延びる方法 感性が劣化した「ネオリベ人間」から脱却する

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資本主義が発展する過程においては、共同体的世界の領域がのみ込まれ、狭まっていく現象もおきるという。お金で商品をやりとりするのは、あくまでも赤の他人との話だ。ほとんどの人は家族や仲間内などの共同体の中に「これをするから金を払え」という感覚は持ち込まないし、物をもらったり手助けされたりしたら、「今度お返しをしよう」という気持ちで持ちつ持たれつの関係を築いていく。

反対に、コンビニで買い物をしたからといって、店員は客に対して後日なにかお返しをするわけではないし、いちいちお互いの人生に関わることもない。お金による商品の交換さえできれば、もともと縁のない、共同体の外の世界の人だからである。

この関係は、資本家と労働者の間にも成り立つ。封建的な共同体では、人間的な尊敬をもとに「親分と子分」あるいは「師匠と弟子」のような関係が結ばれ、「親分の生きざまを見習う」とか「弟子の生活は師匠が面倒を見る」といったことが成立する。

だが、近代資本主義の世界においては、「資本家と労働者」という契約関係となり、資本家は、商品として買った労働力に対して、規定の賃金を支払いさえすればよい。資本家は、労働者の人生を考えてお金の使い道をアドバイスする義務もなく、契約が終われば「お互いサヨナラ」という無縁の関係になるのだ。

「包摂」を高める「リモートワーク」

この原理にのっとれば、人々はお互いに後腐れのない存在となり、それぞれが自由にもなれる。地元のしがらみを抜けて、都会に出て働きたいという若者の姿にも重なる。だがそこには、お互いの人格を知り、人生に関わっていくような絆はない。

マルクスは、近代資本主義が発展することで、この無縁の売り買いの原理が共同体の内部に持ち込まれる、つまり共同体そのものが資本にのみ込まれてゆくと考え、これを「包摂」という概念で捉えている。

例えば、昔ながらの職人的労働が主流の小さな町工場などでは、生産が職人の手腕に委ねられており、資本による包摂の度合いは低い。だが、機械が導入されて、単純労働に置き換えられると、労働者は部品の1つとなり、包摂の度合いが高まる。

資本主義は「余剰価値」を生産することが肝だ。そのためには、不断の変革によって包摂の度合いを高め、生産性を上げなければならない。それが機械化、労働力のダンピング、非正規化、アウトソーシングといった組織の包摂を進め、さらには、海外の安い労働力の利用、外国人労働者の受け入れなど国家単位の包摂にもつながっていく。

白井氏は、これらが格差をもたらし、トランプ大統領の誕生やブレグジットなどの世界を揺るがす社会現象とも直結していることを指摘。マルクスの慧眼にうならされるところだ。

この概念で現代を眺めれば、新型コロナの影響によって広まった「リモートワーク」も、これほど推進していいのかと考える。自由で面倒なことから解放されるイメージがあるが、お互いに会うこともなく、共同体的な関係性が薄れる仕組みという側面は無視できない。

余剰価値を高めるために、今後はオフィスを縮小し出勤させないという変革も大いに考えられるし、それはやがて、成果のみを要求し、従業員を無縁の人間と見なす、資本による包摂の度合いの極めて高いシステムへと舵を切るのではないかと思えてならない。

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