通勤不要になった人が失う自分と会社の一体感 テレワーク浸透で帰属意識や居場所が希薄に

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その正体は、一部の管理職らの言動から読み取ることができる。緊急事態宣言下においても、直接会社に集まる会議や、社員の出勤にこだわり続け、宣言解除後も感染リスクを無視して直接対面のやり取りを強いた上司や経営者がいたことはまだ記憶に新しい。

実のところ、彼らを駆り立てていた動機の深層には、職場で容易に享受できた「上司らしさ」「経営者らしさ」が、在宅ではほとんど得られないという身も蓋もない欲求が隠されていたのである。会社のヒエラルキーに依存した「自分は何者か」という感覚は、「職場という特殊な時空」でこそ成立するものだからだ。

要するに、彼らは会社というコミュニティーに第一義的な帰属意識を強く抱いているがゆえに、「○○会社の○○」というポジションの臨場感を保つための物理的な道具立てを必要としたのである。

日本では、管理職の多くが元々「社会的なアイデンティティー」を「企業人としての立場」に偏重する傾向にあるからだが、それがウイルス禍などよりも優先すべき緊急事態として認識されたことは想像にかたくない。感染リスクを冒してまで出社する人間、出社した事実を評価する会社が存在することがそれを見事に表している。

「会社という舞台」は社員らしさを演じる小劇場?

他方、普段は会社というコミュニティーに帰属感や居場所感をあまり抱いていない特に管理職以外の人々は、「物理的な地平」の消失についてどちらかといえば諸手を挙げて賛成した。会社の人間関係自体がストレッサーになっていた社員にとってはなおさらであった。

会社との接点はネット回線、つまりはパソコンやタブレット上だけ。画面に映る朝礼や会議などを適当にやり過ごし、仕事を1人で黙々とこなすことが可能になり、生産性も向上するのであれば何の不満もない。画面の向こう側にいる人物(上司や同僚など)の存在感は薄れ、画素の粗い悪趣味なGIF動画のようにも見え始め、音声を絞ってしまえばさほど気にならないバナー広告として処理できてしまう。

そうなると、「会社という舞台」が社員らしさを演じるだけの不気味な小劇場のようにしか思えなくなり、部下の監視にのめり込む仕事のできない上司は、さながら公演の機会を閉ざされた大根役者にしか見えなくなる……果ては「そもそもこの舞台に意味はあるのか?」というモノローグすら聞こえる始末だ。このような感慨を抱いた人々は大勢いただろう。

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