巨大企業に富が集まる繁栄が健全と言えない訳 現代社会は縮退を止めない方向へ向かっている
止まれない資本主義経済がなにをもたらすのか、かつて1970年代の未来予測では、温暖化などにより資源、とりわけ石油資源の枯渇が遥かに重大な脅威と見られていた。この深刻さに比べれば、たかが気温が何度か上昇することなどは些末なこととして、当時は話題にも上っておらず、とにかく「石油が完全に枯渇した地表を、人類がその一滴を求めてさまよう」というのが、1970年代頃に思い描かれていた21世紀の悲観的な予想図だったように思う。
しかしそれがその後どうなったかを見ると、実は石油の消費量は当時予想されていたほどには増えなかった。確かに環境にかかる負担は依然小さいとは言えないが、現実には21世紀に入っても原油などは市場で結構だぶついており、少なくとも当時の予想ほどにはそれは悲惨なものではなかったと言える。
また実際消費量を見ても、それは確かに増加してはいるものの、経済発展に比べると、必ずしも指数関数的に急上昇するカーブではなく、むしろどちらかといえば直線的に緩やかに上昇しているように見える。
そこから推察すると、どうも資本主義の指数関数的な倍々ゲームの拡大などということも、現実にはそんなに懸念することはなく、人類がそれを恐れる必要はなかったと思えてくる。
ところが実はそうではないのであり、それは1つには経済の拡大の形態そのものが、ここ数十年で大きく変わってきたからである。そしてわれわれはここで、1つ新しい概念を導入する必要がある。拙著『現代経済学の直観的方法』でも詳しく解説している「縮退」という概念である。
「縮退」はいいか悪いか
「縮退」とはどのようなものか。
実はその実例は読者も身近なところで見ているはずだ。
例えば一昔前の商店街ではたくさんの小さな商店が共存して賑わっていたのに、それが郊外に大手資本が入ったショッピングモールができることで客がそちらに流れ、シャッター街と化している。
ここで1つ注目すべきことは、こういう場合しばしば必ずしも経済全体が衰退しているわけではないということである。
世界の経済を見ても、グーグルやアマゾンに代表されるごく一握りの超巨大企業だけは栄えており、後者だけで統計をとれば世界経済そのものは間違いなく繁栄しているのである。そのためこれが衰退なのか繁栄なのかは一言で言えないことになり、そこでこういう一筋縄ではいかない状態を「経済が(巨大企業に)縮退している」と表現しようというわけである。
これと似たような話は、自然界の生態系の様子を語るときにも聞かれる。デリケートな生態系を持つ湖に、外から強力な外来種が入り込んでくることで昔からの弱小な固有種が絶滅する。そこでは種の寡占化は進んでいるのだが、外来種が増えたことで魚の個体数は逆に増えている場合があり、そこでもやはり衰退か繁栄かの判断には微妙な部分が残ってしまうのである。
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