小説家が明かす「一文が長すぎる文章」の問題点 「文書がクドい人」が知らないただ1つのコツ
句点で切らずにズラズラっと続ける一文中においては、先に述べたとおり、言葉は密接につながり合います。長くなると、読むのに負担はかかります。
しかし、きちんと読み込むことができた場合は、どこの言葉とどこの言葉が係っているのか、誤解しないような作りにはなるのです。
対し、文章を切ると、代名詞(彼や彼女、これ、それ、あれなどなど)で切れ目をつなぐことになったりします。問題はここにあって、代名詞がなにを指しているか、もしかしたら読み手は誤解するかもしれないのです。それは、事実を正確に伝えることを至上命題とする技術系の文書において、致命的です。
なので、なるべく一文を切らずに続けてしまう。それが理系の本能であり、培ってきた倫理だからです。今しがた記された文章で例をあげましょう。
“代名詞がなにを指しているか、もしかしたら読み手は誤解するかもしれないのです。それは、事実を正確に伝えることを至上命題とする技術系の文書において、致命的です。”
この文章の「それ」は、直前の文章の「読み手が誤解するかもしれない」ことを指しますが、違う読み方をされてしまう可能性もゼロではありませんよね。
そんな感じの問題、国語のテストでやりませんでしたか? 文章中の「それ」とはなにを指しているか、答えなさい……みたいな。テストで問題になるということは、間違う人間がいるということです。
一方で、
“代名詞がなにを指しているか、もしかしたら読み手は誤解するかもしれないことは、事実を正確に伝えることを至上命題とする技術系の文書において、致命的です。”
なんて風に書くと、誤解の可能性は防げます。基本的に、理系の文章においてはこうやって一文が長くなっていきます。
しかしどうでしょう、やはり、誤読しにくくなった分、代わりにグッと読みにくくなったと思いませんか? 理解しやすさが目減りしました。
「クドい文章」を書いてはいませんか?
もっと違った表現をするなら、なんかクドくないですか? この「なんかクドイ」という言葉、かつて私は何度も何度も言われてきました。そのたび、「正確に書いているのに、なんで文句言われなくちゃいけないんだ」と内心憤慨していました。
しかしこれは、的外れな怒りです。代名詞を排除し、一文を長くして誤読を防ぐのは、誤解しにくい文章のためのテクニック。理解しやすい文章が求められているシーンで使うべきではないのです。自分が書きたい文章と、求められている文章が食い違っていないか、都度都度、確認していかなければいけません。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら