だが、それは良いことと悪いことの両方をもたらしたかもしれない。
もたらされた良いことは、感染症との戦いのためには官憲の監視ではなく、民衆における自律と自助が必要だということが証明されたことである。当時の日本は消化器疾患や結核などで毎年10万を超える死者を出していた。当時の医学では感染症に十分には立ち向かえなかったのだ。
そうしたなか、新しい脅威として登場したスペイン風邪に対して、いわば広汎な民衆運動として、マスクとうがいの励行そして感染者の早期隔離などの動きが広まった。新しい感染症は民衆を団結させたのだ。
だが、これは悪いことにもつながる。
明治以来の日本が経験した「戦争」の中でも、基本的に軍閥間主導権争いだった西南戦争や国外での支配権争奪戦争だった日清・日露両戦争と異なり、日本全国に現れた見えない敵であるウイルス感染症に対しては、民衆レベルでの「総力戦」が展開された。そのことが、その後の日本の国家のかたちに影響したようにも思えるからである。こうした経験が、国家権力と民衆の日常との精神的結合を生み、関東大震災や昭和恐慌の教訓ともあいまって、昭和の国家総動員体制の下敷きになっていったと考えるのは、歴史の見方としてシニカルすぎるだろうか。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
改めて断っておくと、筆者は、この感染症に対するのに国民全員PCR検査体制を提言する人たちを、それだけの理由で自由や人権を軽んじる人たちであると言いたいわけではない。しかし、この種の提言は、提言者がどう思っていたかということと離れて、予想もしなかった時代の「空気」を生み出しかねないことを忘れるべきではないことだけは警告しておきたい。
筆者がコロナ禍の直前に上梓した『国家・企業・通貨』では、コロナ禍については何も論じていなかったが、西欧世界にある「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言に触れておいた。感染症対策を論じる人たちには、今こそ、この格言の底にある歴史の教訓を考えてほしいと願っている。
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