つまり、実は「情報」やその関連産業は“S字カーブ”の成熟段階に入ろうとしているのであり、いわゆるGAFAの業績も最近ではさまざまな面で陰りがさしてきていると言われる。
そして、先述のように「情報」の次なる基本コンセプトは明らかに「生命」であり、それはこの世界におけるもっとも複雑かつ根源的な現象であると同時に、(分子生物学といった)ミクロレベルのみならず、生態系(エコシステム)、地球の生物多様性、その持続可能性といったマクロの意味ももっている。
こうした包括的な意味の「生命」あるいはそれと人間との関わりが、これからの21世紀の「ポスト情報化」時代の科学や経済社会の中心的なコンセプトとなっていくということを、私自身は先述のような一連の本の中で論じてきたのだが、今回のコロナをめぐる災禍は、ある意味でそれをきわめて逆説的な形で提起したと言えるだろう。
「生命」は「情報」でコントロールできるか
この場合重要なのは次の点である。すなわち、昨今の「情報」をめぐる議論で、しばしば私たちは、膨大な「ビッグ・データ」やさまざまな「アルゴリズム」で世界のすべてを把握し、コントロールできるという世界観あるいは‟幻想”にとらわれがちだ。
そして、「生命」それ自体も「情報」によってすべて理解し把握できると考えがちなのであり、私は以前からそれを「情報的生命観」と呼んできた(拙著『生命の政治学』参照)。
近年のその典型は、いわゆるシンギュラリティ論で有名なアメリカの未来学者レイ・カーツワイルであり、彼の主書『シンギュラリティは近い(Singularity is Near)』のサブタイトルは、いみじくも「人間が生物学を超えるとき(When Humans Transcend Biology)」となっている。
要するに、「生命」はすべて「情報」でコントロールできる、あるいは生命は情報に還元することができるというのがその基本思想である。
しかし、今回のコロナ・パンデミックは、「生命」はそれほど簡単に「情報」によってコントロールできるようなシロモノではないということを、私たちに冷厳な形で突き付けたのではないだろうか。細菌やウイルスはある種の‟創発性”をもっており、人間が設計したアルゴリズムのコントロールをすり抜ける形でさらに進化していく。
さらに言えば、むしろ「情報」と「金融」と「集中化」と「グローバル化」で世界をコントロールし尽くそうとするという現在の流れこそが、皮肉にも今回のようなパンデミックをもたらし、しかもそうした流れの中で蓄積していた格差や貧困や環境劣化が、災禍を一層増幅させてしまうことが明るみになったのではないか。
ここでは、前回も含め、昨年出した拙著『人口減少社会のデザイン』の議論を踏まえつつ、「コロナ後の世界」の構想というテーマを、以下の4つの柱にそくして述べてきた。
(2)格差の是正と「持続可能な福祉社会」のビジョン
(3)「ポスト・グローバル化」の世界の構想
(4)科学の基本コンセプトは「情報」から「生命」へ
という4つの柱にそくして述べてきた。以上の議論からすでに明らかなように、これらの4つの論点は相互に深く関連し合っている。
現下の対応と並行しながら、社会システムのありようや人間と科学、生命との関わりを含め、「コロナ後の世界」の構想を根底から議論していくことが今こそ求められている。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら