経済学者が成長より「善と悪」を考えるべき理由 欧州と日本がざわついたチェコ人学者の提言

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また、数学、モデル、数式、統計といったものは、すべて経済学という大きな器の一部を占めるにすぎないこと、器の大部分はこれ以外のもので占められていること、経済学における論争は物語やメタ物語同士の衝突にほかならないことも示したい。

人々が経済学者に教えてもらいたいと思っているのは、経済的行動において何がよくて何が悪いかということであり、これは昔もいまも変わらない。

私たち経済学者は、何がよいか悪いかについて規範的な判断や意見を差し控えるよう訓練されている。だが教科書に書かれていることとは裏腹に、経済学は規範的な領域に属している。経済学はありのままの世界を記述するにとどまらず、しばしば世界はどうあるべきかに言及する。

曰く、効率的であらねばならない、完全競争を目指さなければならない、低インフレ高成長を実現せねばならない、競争力を強化すべく努力せねばならない……。

そのために経済学者はモデルを構築するが、モデルは現代の寓話であって、そうした(多くは意図的に)非現実的なモデルは、現実世界とほとんど関係がない。経済学者がテレビ番組の中で、現在のインフレの水準に関する一見無害な質問に答えることはめずらしくない。

ところが次の瞬間には、そのインフレ水準はいいのか悪いのか、あるいはインフレ水準はもっと高くすべきか、低くすべきかという質問が来る。いや、質問されなくても、経済学者が自分から付け加えることが多い。このようにテクニカルな質問に対しても、彼らはよいか悪いかを瞬時に考え、規範的な判断を下す。低く(あるいは高く)すべきだ、と。

私の問いーー善と悪の経済学は存在するか

にもかかわらず経済学は、何としてでも「よい」「悪い」といった言葉を使うまいと躍起になっている。だがそれは不可能だ。「もし経済学が真に価値中立的な学問であるなら、経済学界の人々は経済学思想を完全に体系化できていたはず」だが、ご存じのとおり、そうはなっていない。私に言わせればそれは結構なことだが、ともあれ、経済学が規範的な学問であることは、認めなければならない。

ミルトン・フリードマンは『実証的経済学の方法と展開』の中で、経済学は価値中立的で、世界をあるがままに記述しあるべき姿を論じないという意味で実証的な学問であるべきだ、と述べた。

しかし「あるべきだ」という物言い自体が規範的であり、あるがままではなくあるべき姿を論じている。現実には、経済学は実証的ではない。もしそうなら、そうなるべきではなかった。「言うまでもなく科学者の大半は、そして多くの哲学者も、厄介な根本的問題を考える必要を省くために、つまり形而上学を避けるために、実証主義を掲げる」。

とはいえ価値判断をしないこと自体が1つの価値なのだし、少なくとも経済学者にとっては重要な価値となっている。もともとは価値を研究する学問だったものが価値判断の排除を目指すとは、矛盾ではないか。ついでに言えば、市場の見えざる手を信奉する学問が神話を無視するのも矛盾している。

そこで私は、次の問いを発したい。善悪の経済学は存在するか。善は報われるのか、それとも経済計算の外に存在するのか。利己心は人間に生来備わったものか。公益に資するなら利己心を正当化できるか。

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