経済学者が成長より「善と悪」を考えるべき理由 欧州と日本がざわついたチェコ人学者の提言
経済学が、さして意味もなく応用も利かない機械論的・分配論的計量経済学モデルに堕すべきでないとすれば、こうした問いは考える価値がある。
なお、「善」や「悪」という言葉を怖がらないでいただきたい。これらの言葉を使うからと言って、道徳を論じるわけではない。誰だって心の中に倫理規範を持ち合わせていて、それに従って行動している。同時に、誰もが何らかの信仰を持ち合わせている(無神論も信仰の一種である)。
その点では、経済学も何ら変わらない。「知的影響から自由なつもりの実務家は、だいたいはもうすたれた経済学者の奴隷なのだ。……いずれわかることだが、善悪どちらにとっても危険なのは、既得権益ではなく思想である」とジョン・メイナード・ケインズも言っている。
『善と悪の経済学』での私の目的は、経済学の物語を紡ぐことにある。別の言い方をするなら、経済学の人格が育まれていく過程を示したいと考えている。そのために、経済学的な思考が始まる前に提起された問いを、哲学の問題として、そしていくらかは歴史の問題として投げかけることにしたい。
私が取り上げるのは経済学の境界ぎりぎりの領域であり、たぶんそこからたびたびはみ出すだろう。それを原始社会学に倣って原始経済学と呼んでもよいだろうし、あるいは形而上学に倣ってメタ経済学のほうが適切かもしれない。
「経済学の研究はあまりに狭く、あまりに細分化されており、有効な知見に結びつかない。これを避けるためには、メタ経済学の研究で補完することが必要である」という意味でのメタ経済学である。
ホモ・エコノミクスに取り憑かれた経済学
文化や学問における重要な要素は、その時代のさまざまな制度や組織の構成員が無意識のうちに前提としている基本的仮定の中に見出されるものだ。そうした仮定はごく当たり前になっているため、人は自分が何を前提としているのか気づいていない。哲学者のアルフレッド・ホワイトヘッドが『観念の冒険』の中で書いたように、それ以外の形でものごとが起きるとは想像もできないからである。
経済学者は実際には何をしているのか。そして、それはなぜか。経済学者は、技術的にできることを倫理的にもできるのか。経済学の本質とは何か。経済学は何のために努力するのか。経済学者は実際には何を信じているのか、その信念(往々にして当人は気づいていない)はどこから生まれるのか。学問が「明言された信念の体系」であるなら、それはどのような信念か。
今日では、経済学は世界を説明し変えるだけの重要な学問領域になったのだから、これらはすべて問う必要がある。
主流派経済学は経済学から色彩の大半を捨て去り、黒と白しかないホモ・エコノミクス(経済人)に取り憑かれ、それによって善悪の問題を無視してきた、と私は考えている。経済学者は自ら望んで目をつむり、人間を突き動かす最も重要な力を見なくなった。
人間の経済的行動については、精密な数学モデルから学べるのとすくなくとも同じくらい多くの知恵を、哲学、神話、宗教、詩から学ぶことができる。
経済学は価値を論じるべきではないとされてきたが、むしろ独自の価値を探し、発見し、語るべきである。そもそも経済学が価値中立的だというのは、真実ではない。経済学の中には数学も存在するが、それ以上に多くの宗教や神話や元型が存在する。
今日の経済学は、中身よりも方法にこだわりすぎているのではないだろうか。経済学者は、さらには多くの経済学徒も、ギルガメシュ叙事詩、旧約聖書、キリスト、デカルトなどの広い情報源から学ぶことが欠かせない。
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