「人は死なない」を前提にした現代医療の問題点 医療者の「専門分化」がかなり進行している
今や専門分化が進んで、「人が生まれるとき」「人が死ぬとき」のケアは、各々独立した専門領域となってしまっている。前者は産科という昔からの専門科であり、ここでは立ち入らない。
一方、少子高齢化が進み、「生まれる数」は少なくなったが「死ぬ数」は今後も増加する。それなのに「緩和医療」「ターミナルケア」として、後者が特別な領域になり、一般の臨床医から離れた存在になるのには、それなりの理由があるはずである。私は、現代医療は、基本的に「人間は死なない」ことを前提としていると感じている。
祖母の死
私の祖母は20年ちょっと前、82歳で、腎不全で死んだ。田舎で付き添っていた母から、いよいよ危ない、という連絡を受けて、私は同僚の腎臓内科医に相談した。「80歳を越えて血液透析を導入しても、いいことはないぞ」と言われた。私は理由を聞かなかった。これだけで、「ああ、そうだろうな」と納得してしまったからである。
死ぬ2日前、祖母に会った。意識はクリアだった。私は、「おまえとももう最後だ」と言う祖母と、長い間抱き合って別れた。祖母の直接の死因は腎不全からの不整脈で、透析とペースメーカーでもう少しは延命できたかも知れないが、それはつまり「もう少し苦しめていた」ということでもある。
今、私の周囲を見渡すと、90代で透析導入する患者は多い。血液透析は長時間拘束され、相当のストレスを伴うので、お年寄りの中には嫌がる人も多い。なだめたりすかしたり脅したり、押さえつけたりしてやっている。透析は、やめれば死ぬ。死は防がなくてはならないのだ。
自分で食事ができず、無理して飲み食いするとむせて誤嚥性肺炎になる、という高齢者は、昔は老衰としてそのまま天寿を全うしたが、近頃はなかなか死なせてもらえない。酸素吸入や点滴は言うに及ばず、胃瘻(いろう)を設け、もしくは高カロリー輸液をして、命を延ばす。本人が嫌がって管を抜かないようにと、手足の抑制も行う。
それでも肺炎になったら、抗生剤を使う。患者は10年間寝たきりで、5年間一言も発していない、としても、そんなの関係ない。病名は「脱水」や「肺炎」であり、そういう「病気」は「治療可能」なのだ。ベースにある(はずの)老衰は無視される。もしくは「脳梗塞後遺症」とか「アルツハイマー病」とかいう「さしあたり生命予後に関係ない持病」として棚上げされる。
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