「人は死なない」を前提にした現代医療の問題点 医療者の「専門分化」がかなり進行している
その「治療」開始の前に、一応家族に相談をして了解は取る。だが家族だって、「持病は今のところ命に別状ないが、この肺炎は、治療しなければ死ぬ」とか言われたら、「お願いします」と答えるしかなかろう。「もう年だから、いいです」と言うには、相当の覚悟を必要とする。
ある大学病院の先生は、数年前に80代後半のお母さまを看取ったが、ご本人の事前の意思により、肺炎で入院した際に抗生剤も使わず、対症療法で苦痛をとるのに徹したそうだ。この時、身内からは非難囂々であり、弟さんからも「兄さんは母さんを見捨てるのか」、と詰(なじ)られたという。
「確かに本人がそう言っていたかも知れないが、病気は末期がんなんかではなくて、治療可能な肺炎なんだぜ。そりゃあ、年だからいずれは死ぬのだろうが、それがなぜ、今なのか」
「治るものは治す」
病院側からすると、運ばれて来たら治療をするデフォルト(初期条件)になっている。最近の大病院は「急性期病院」と称し、とにかく「治るものは治す」。むろん老衰の要素は治せないが、それではすぐには死なないから、そのままで慢性期の施設に送る。急性期病院で死ぬことはほとんど想定されていない。
一方、慢性期のケア施設では、状態は安定していることが前提である。確かに持病はあるが、それは後遺症とか慢性病とかで、今日明日どうこうはない(はずである)。よって「命に関わる」状態に悪化した時は、何らかの「急性合併症」が起ったはずで、それは「治療可能」なはずだから、急性期病院に送る。ここでも、死ぬことは想定外である。
唯一死ぬのも仕方がない、と思われる病態はがんくらいだが、これにしたって、外科医は手術が終わったら、「あとは自分の仕事ではない」。内科医も最近は、薬物でがんが治る可能性が出てきており、張り切って治療するのだが、多くの場合いずれ治療は不可能になる。その時は「もうやることがないから、緩和ケアに行け」という医者もいる。
がんなのだから、いずれ進行して死ぬのはわかっていたはずなのだが、自分の仕事は「治療」であり、症状緩和と死ぬところの面倒見は、「それ専門」のところがふさわしい、というのがその言い分である。
かくして、病院やケア施設から死は遠ざけられ、医者の中には、人が死ぬことを想定しないものが増えていく。少なくとも「自分のところで死なれる」ことはないと考えるようになる。それは防ぐべき事態なのである。死ぬのはそれに特化した、いわば「専門業者」の領域であり、自分たちの目には触れない。一般人も、これだけ医学が発展して、がんでも治り、100歳も当たり前の長寿時代になったのに、80歳や90歳で肺炎や腎不全など「治療法がある病気」で死ぬなんて、とんでもないと考える。
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