これが、かの有名な『源氏物語』が生まれた背景か! 暗いっ……と思わないでもないが、紫本人の心の中を覗けるような気がして、入口が少し暗くても、その贅沢な体験を辞退するわけにはいかない。
日記前半を特徴づける華やかな式典の描写や、後宮での女房とのやり取りは的確で、歯切れのいい文章でつづられているが、この部分は流れるように少しずつ深層に向かって進み、スタイルも少し異なるように見える。
平安時代の文章はほとんど句読点がなく、いざ解読にかかろうとしても、文と文の切れ目もわからなければ、主語って誰?と急に迷子になったり、話がコロコロ変わったりしてついていけない。なので、今出版されている文献は理解しやすいように最小限の句読点をつけたり、漢字をあてたりしているが、この一文は、最近の注釈本でも原形を保っており、著者の思いつめた心境がありありと伝わっている。
「後ろ盾」を失った女性が生きるのは大変だった
私たちが平安時代を想像する時、絵巻で見るような、キラキラと光り輝く金の雲に囲まれた完璧な世界を思い浮かべ、宴会と夜這いにだけ時間を費やしていた貴族たちの優雅な暮らしを空想することが多いだろう。
そのイメージは主に『源氏物語』が醸し出している雰囲気に大きく影響されているが、リアルな平安は雅ばかりではなく、むしろとてつもなく物騒な時代だった。
見知らぬ病気がいつはやるかもわからない、出歩いただけで強盗にあうかもしれない、いつ火事が起こるかわからない……。災害に見舞われなくても、後ろ盾になる人が失脚したら自分の立場はまるでない。女性であれば、なおさらだ。『万葉集』を丸暗記したり、琴を完璧に操ったりすることができたかもしれないが、それでは生活はしていけない。
自力でその状況から脱出できた紫にとって、つらい時期につづり始めた『源氏物語』は慰めであり、就職口につなげてくれた救世主でありながらも、自らの弱さと頼りなさの証しでもある。だが、物思いに耽り、過去の憂鬱で陰気な時間を思い出しつつも、彼女の心の中で新たな感情が少しずつ芽生えてくる。
試しに、物語を手に取って中身を見たりしたけど、昔みたいな気持ちには全然なれなくて驚いたわ。あれだけ仲がよかった友人たちも、わたしが軽くて浅はかな人になったと思っているだろうし、それを考えただけで恥ずかしくて、手紙すら出す勇気もない。
物語というファンタジーを共有して、語り合っていた人たちはみんなぬくぬくと暮らす奥様たちばかり。外出でさえしない彼女らは、仕事をする気なんて毛頭ない。
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