「『くるまや』の一家は、今の平均的な日本の家族の中では恵まれているほうじゃないですか。小さいながらも自分の土地と家を持っていますから」と、パンフレットで語るのは、監督・山田洋次である。そんな「恵まれている」設定であっても、多面的な疲労感が画面いっぱいにあふれる。
私が思うのは、現代社会における疲労感のリアリティーを、これでもかこれでもかと注入したうえで、車寅次郎というノスタルジーを上乗せさせたことこそが、重要だったのではないかということだ。
つまり、先に述べた「ノスタルジーとリアリティーの融合」。言葉を補足すると「過去にうっとりとするノスタルジーと、現代の疲労感というリアリティーの融合」。これが『お帰り 寅さん』の本質的な魅力だと思うのである。
もちろん車寅次郎は、疲労感のリアリティーに対して、何の解決策も提供しない。2020年の疲労感は、車寅次郎の処理能力から外れている。
しかし、というより、だからこそ、満男をはじめとする作品の中の人々は、車寅次郎の思い出で心を奮い立たせて、疲労感に立ち向かっていくエネルギーを得ているのだ。
山田洋次はパンフレットで「最初は過去の作品を編集して1本の映画にしようと思った」とも語っているのだが、そういうノスタルジーのみの作品だと、ここまでの成功には至らなかったのではないか。
と考えると、『お帰り 寅さん』は、大ヒットした映画『ボヘミアン・ラプソディ』にも通じる部分がある。
あの映画も一見、クイーンの「リアルタイム層のノスタルジー」を狙ったもののようでいて、セクシャリティや民族問題、ドラッグなど、現在社会に通じるリアリティーとノスタルジーを見事に融合させていた。それが、その後いくつか作られた「ミュージシャン伝記映画」との決定的な違いだったと思うのだ。
幅広い層を吸引できたワケ
エンタメ界において「昭和コンテンツ×ノスタルジー」の食べ合わせは最強と思われている。また、今回の作品も『お帰り 寅さん』というタイトルに象徴されるように、ノスタルジーをマーケティングに徹底活用しようとしたフシがある。
ただし、ノスタルジーの弱点はターゲットが「リアルタイム層」に限定されることだ。より幅広い層への普遍性を持たせるなら、現代へのリアリティーが必要となるのは、ある種当然の話である。
「フォロワー層」の1人として言わせてもらえば、『お帰り 寅さん』には現代へのリアリティーを確かに感じたし、だからこそ幅広い層を吸引、観客動員も健闘したのではないか。
――などという、上から目線の理屈っぽい分析を述べていると、車寅次郎が後ろに突然現れて、「てめぇ、さしずめインテリだな」と返されそうだが。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら