冒頭の桑田佳祐の歌でぐっとつかまれ、インサートされたシリーズ第1作、博(前田吟)との結婚を決意するさくら(倍賞千恵子)のキュートさに見とれ、悩める満男(吉岡秀隆)の姿に共感し、そして例のエンディングに涙を流したのだ。
言いたいことは、『お帰り 寅さん』が単に「リアルタイム層のノスタルジー(郷愁)でヒットした」と結論づけてしまうと本質を見誤るのではないか、ということである。「フォロワー層」にも波及しうる、より広く深い魅力が埋め込まれていたのではないか。
そこで私は、「ノスタルジーとリアリティーの融合」に着目するのだ。
スクリーンから溢れる「疲労感」
『お帰り 寅さん』の画面は、疲労感にあふれている。
「くるまや」の座敷から台所に行く段差に手すりが付けられていた。さくらや博が、あんなに短い段差の上り下りすら、つらい年齢になったのだろう。
そのさくらは、博から物忘れを指摘されてキレるのだが、あのシーンも、まさに「老人あるある」として、実にリアリティーがある。
疲労感をぎゅっと凝縮した存在が、泉(後藤久美子)の実の父=一男(橋爪功)だ。妻礼子(夏木マリ)と離婚し、ケアセンターに1人で入居していて、身寄りなく「孤独死」を待ちながら、ほとんど見ず知らずの満男に金をせびる。
その泉は、ヨーロッバ在住で結婚して子どももいて、国連で働き、そのうえ、相変わらずの美貌という、一見完璧な「リア充」なのだが、仕事はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員で、世界の難民の惨状に日々直面している。
実質的な「主人公」の満男は、脱サラののちに、小説家として(ある程度)成功していて、こちらも一見「リア充」なのだが、周囲のあれこれに翻弄され、(吉岡秀隆一流の)苦渋に満ちた表情を始終見せていて、作品の疲労感を増幅させる装置となっている。
それ以外にも、さくらの老眼鏡をかけてスマホをいじる姿や、ずっとイライラし続けている礼子、トイレの間隔が近くなっているリリー(浅丘ルリ子)の姿に、「人生100年時代」というポジティブな響きとは裏腹の、高齢化社会におけるリアルな疲労感を確かめるのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら