「家族を想う時」が描くイギリスの底辺と分断 貧困はあの手この手で労働者から時間を奪う
しかし、ローチやブラッドワースが描こうとしているのは、労働の過酷さだけではない。ここで重要なキーワードになるのが、「個別化」だ。リッキーやアビーが従事しているのは、他者との接点を排除していくような個別化された仕事であり、そこではこれまでの産業にあったような連帯感や尊厳を得ることができない。
リッキーは、疲れ切り、壊れかけた家族を立て直すために、本部の責任者に1週間の休みを申し出るが、「なぜ俺に尋ねる。自営だから代わりを探せば済むことだ」と冷たく突き放される。ほかのドライバーたちも、同様の問題を抱え、助け合うことができない。
アビーは、「自分の母親と思って世話すること」という介護の指針に共鳴し、心を込めて高齢者や障害者の世話をしているが、時間の超過が支払いに反映されるわけではないし、担当者は彼女の報告に真剣に耳を傾けようともしていない。バス停で打ちのめされたようにたたずむ彼女の姿は、個別化がもたらす苦悩を表現している。
そして、大卒者が直面する現実…
さらに、もう1つ見逃せないのが、セブがトラブルを引き起こす原因だ。それは社会の変化と無関係ではない。印象に残るのは、セブと両親が将来について語り合う場面だ。アビーが、成績優秀だったセブに「大学に行っていいのよ」と語りかけると、彼は友人であるハープーンの家庭の事情をこのように話す。「ハープーンの兄貴は進学で5万7000も借金、コールセンターで働いて週末ごとに飲んだくれ、上等だよ」。
ブラッドワースの前掲書には、大卒者が直面する現実について、以下のような記述がある。
聡明なセブはそんな現実を理解し、両親が気づかないところで絶望感にさいなまれている。そして、彼には、「だが、いい仕事もある、真剣に探せば」と諭すリッキーの言葉が虚しく響く。両親が直面している現実が、それを明確に否定しているからだ。彼らはそれぞれに個別化というおりに閉じ込められ、どうすることもできずに苦しんでいる。