補償措置法成立が地域再生に必須、八ッ場(やんば)ダムから始まる新政権の公共事業改革《特集・不動産/建設》
そこは公共事業の、いわば“聖地”だ--。
高崎からJR吾妻線で1時間強。草津温泉へ向かう途中にある川原湯温泉駅で下車すると、目前の国道をひっきりなしに車が行き交う。乗用車も多いが、半数はダンプカーだ。曲がりくねった道路を高速で歩行者すれすれに追い抜いていく。
駅から数分で川原湯温泉の入り口に着くが、平日の昼間は人通りもなく、商店街はスカスカで家もまばらだ。旅館街はさらに15分ほど奥の山あいにある。古い建物は風情があるが、温泉街の賑わいとはほど遠い。
群馬県吾妻郡長野原町。源頼朝が訪れたとの言い伝えもある、この川原湯温泉をほぼ全水没する形で計画されたのが、当地を流れる吾妻川をせき止める八ッ場(やんば)ダムである。
ダム計画が言い渡されたのは1952年。関東地方を47年に襲撃したカスリーン台風後の洪水対策として、治水が主目的だった。
旧建設省の役人が村民を集め、「ここにダムを造る。この村は、ざんぶり水に浸かりますな」と言い捨て、立ち去ったという(萩原好夫著『八ッ場ダムの闘い』岩波書店)。
住民は一斉に反対。特に、全水没の川原湯温泉は猛反発した。河川の水質が強酸性だったため、いったん宙に浮いたダム計画だが、64年に酸性中和工場が完成し、65年に計画が再浮上。反対運動も激化する。
ただ、2度目の計画浮上に住民の心理的ダメージは大きく反対運動団体は賛成派、反対派、中立派に分裂。自民党や旧建設省、群馬県は陰に陽に住民を切り崩し、小さな集落は隣近所や親類縁者まで近親憎悪を生み出し、反対運動は自壊する。家の中で両親が賛成派、反対派に分かれ口論するのを苦に自殺した親友の死に顔を見て、父親が反対派だったのに、闘争を放棄した者もいるという。