補償措置法成立が地域再生に必須、八ッ場(やんば)ダムから始まる新政権の公共事業改革《特集・不動産/建設》

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 この間、八ッ場ダムは発電など利水を加えた多目的ダムとなっていく。群馬県は総理大臣を4人輩出した自民党土建王国の総本山。目的の追加・変更はあっても、建設そのものが見直されることはなかった。

住民たちは闘争に疲れ果て、群馬県が提示した生活再建案を基に、85年に長野原町と県が覚書を締結、反対運動は終焉。温泉街維持のため、水没地区の移転代替地は「ずり上がり方式」で100メートルほど山あいのダム湖隣接地に建設されることになる。

半世紀の歳月が変えたダムの目的と効果

だが、悲劇はむしろここからだ。86年には八ッ場ダム建設基本計画が決定したものの、今度は地元への補償交渉が難航する。補償基準が調印され、個別補償交渉が始まったのは2001年になってからだ。

補償金は1戸当たり数千万~10億円ともうわさされ、隣近所の新たな疑心暗鬼を生む。代替地の分譲価格が高く、分譲基準への調印は07年までずれ込んだ。ずり上がりで引っ越せば補償金では賄い切れないケースも出てくる。工事の遅れにも嫌気が差し、400世帯を超えた移転対象住民は半数以上が代替地以外の近隣か町外へ流出してしまった。

長野原町を歩くと、対面の山肌は切り崩され、峡谷のひなびた温泉街に、朝からパワーショベルの音が響き渡る。難工事や土地収用の遅れから、整備はなかなか進まない。

00年の完成予定が10年へ、さらに15年へ先送りされた。事業費も雪だるま式に膨れあがる。現在の総事業費4600億円は、04年の計画変更で2110億円から倍増したもので、再増額の可能性もありうる。

皮肉なことに、住民がダムを受け入れてから、環境意識の高まり等から下流都県の住民のダム反対運動が激しくなる。日本全体の人口減少や節水技術の発達で、下流都県の水使用量は頭打ちとなり、08年の政府答弁では、カスリーン台風再来に対する八ッ場ダム追加による治水効果もゼロであることが判明してしまう。

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