ハンセン病隔離政策で苦しんだ「孤島・長島」の今 「人権の島」を生きた人々の数奇な人生

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

本稿の舞台である長島は、1930年に長島愛生園を開園し、東京や沖縄といった他県から多くのハンセン病患者を受け入れてきた。冒頭の新良田教室は、そんな長島内にあった邑久高校の中にある特別教室として、全国でも唯一無二の存在だった。

全国から受け入れる際に使われてきた港(筆者撮影)

1987年の閉校までの間で、多くの問題が浮き彫りになっている。例えば社会の理解が得られないという理由で、修学旅行は1975年まで行われていない。

冒頭で述べたように、新良田教室の在校生たちはハンセン病患者にとっての全国で唯一の高等学校だった。

どんな思いで、上記のような状況で学んでいたのだろうか。教員たちは、繊細な心の機微を感じることもあったという。当時の様子を山下氏が述懐する。

「生徒たちは勉強熱心で、極めて高い学力水準でした。スポーツに熱心に取り組む生徒も多かった。中には入所歴を隠した生徒も少なくありませんでした。頭の中では、他の感染症と同じ身近な病気であると理解している教員がほとんどでした。

年々、生徒と教員の溝は小さくなりましたが、生徒と教員の間の壁は消せなかった。新良田での経験で、私のその後の人生は大きく変わったんです」

新良田教室が多くの若者を救った

1964~1987年まで新良田教室に勤務した横田廣太郎氏は、自著『ハンセン病の差別と人権』(特定非営利活動法人おかやま人権研究センター刊)の中で、こう記している。

「新良田教室の開校は、それまでの歴史の中で、悲惨な患者のやっと辿り着いた1つの希望のトリデであった。いろいろ問題はあったが、新良田教室の果たした役割は大変大きなものがあったと確信している。(中略)新良田教室がなかったら、社会で働いている自分はない、自分を輝かせることができなかったという卒業生がほとんどです。新良田教室の出現が多くの若者を救ったというまぎれもない事実です。このことは、わが国のハンセン病史上に漫然と輝いていくと思います」

島内にある長島愛生園歴史館には、年間400団体、1万2000人ほどの人々が訪れる。同施設の学芸員を務めるのは、邑久高校の出身者である田村朋久氏(43)だ。

「私自身、昔は新良田教室があったことは知らなかったんですよ」と話す田村氏は、大学卒業後、商社勤務を経て、学芸員としてこの町に戻ってきてから19年目を迎えた。ハンセン病に対する知識も皆無だったが、患者さんたちに対する理解を深めていくにつれ驚きを覚えた。

次ページ未来に伝える語り部が必要
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事