──リフレ派の援軍になった。
1990年代前半のマネーサプライをめぐる「岩田(上智大学)‐ 翁(日本銀行)論争」のとき、多くの実務者は、「日銀が貨幣供給量を増加させれば、なんて、経済学者は単純なことを言うなあ」と思っていました。ところが、金融政策に限らず、日本は欧米の理論に弱い。また、最終決定をする政治の側でも金融緩和を受け入れる素地があった。
政府は2001年に「デフレ=物価下落」と定義しました。これは「デフレ=悪=金融政策の責任」といった考え方につながっていきました。デフレの定義は政治家や官僚などの手詰まり感を反映したように思います。問題が極端に単純化されてしまったのです。
政策を左右した「サイレント・マジョリティ」
──そこに大衆の感情が加わる。
本書では、高度成長や都市化とともに政党や宗教などの組織から自由になった人々を「サイレント・マジョリティ」と表現しました。少数派ではなく、貧困層でもないので、直接的な分配要求はしませんが、経済成長が停滞してくると、不満のはけ口として仮想敵を必要とし始めます。
これが欧米では移民排斥となり、日本では官僚批判などに向かいやすかった。そして、日銀も官僚機構の1つとして仮想敵に擬せられたのです。最初に強硬な日銀批判をした政党は、官僚批判を党是としていたみんなの党でした。これは経済ポピュリズムともいえる事象だと思います。
──タイミングも悪かった。
1998年の法改正で日銀の、政府からの独立性が高まりましたが、その後しばらく日銀はむしろ気負ってしまい、独善的な政策を取りすぎた面もありました。2000年にゼロ金利解除というミスを犯した結果、逆に2001年にQEの導入を迫られます。その頃から、リフレ派の主張がネットで拡散され、専門外の人々の誤解に満ちた意見があふれました。デフレは貨幣的な現象で悪、それを止められない日銀が悪い、という主張が広まっていったのです。サイレント・マジョリティに配慮する政策は、リーマン危機後、世界的にも加速していきます。
──日本は2013年に量的・質的緩和(QQE)開始、副作用が心配です。
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