「だいたいどこの編集部も忙しいと思うのですが、僕が入った編集部は月刊誌を同時に2媒体やっていて、しかも同時進行ではなく、入稿や印刷のタイミングが少しズレているんです。1つは関西版の風俗情報誌、もう1つは北陸版の風俗情報誌。だから、通常の月刊誌なら校了後少しゆっくりできる期間がありますが、自分のいた編集部は関西版が終わったらすぐに北陸版の取材のため、休む暇がありませんでした。
取材、撮影、ラフ画作成、原稿執筆、編集、なんなら男性モデルまで顔出しでやっていました。最終的には『Illustratorでデザインに文字を流し込め』と言われたのですが、さすがに『忙しいんで無理です!』と断りました。休みは月に2回あればいいほうでした」
この頃の健一さんは15時間拘束で月給22万円だった。あまりにもハードなので社長に直談判して給料を3万円上げてもらうも、給料の遅配が始まったので退職。その数カ月後に会社は倒産した。
その後、印刷会社に転職するも、ここもブラックだった。飛び込み営業で仕事を取ってくるのがメインの業務だったが、「簡単なデザインのものは自分で作れ」と社長に言われ、名刺などは自分で作った。給料は安かったが、会社の寮に安く住まわせてもらっていたので、住まいの面では助かった。
「何とか働いていたのですが、同期が次々に辞めていき、同期は自分ともう1人だけになってしまいました。もともとの顧客もいるし、辞めた同期の分の仕事もあるしでオーバーワークとなり、10カ月で辞めました。その後は実家に戻ってフラフラとフリーター生活です」
年齢と職歴で落とされてしまう
そして30歳のとき、東京で印刷会社の仕事があると紹介され上京。会社が倉庫代わりに使っていたアパートに無料で住めると言われたのが決め手だった。しかし、ここでも激務を体験。社員も少なく、Illustratorを使える社員が産休に入ったとき、その仕事を健一さんが請け負うことになった。ほかにIllustratorを使える社員がいなかったのだ。
「今思うと、無理やりにでも他の人にデザインの仕事をやらせておけばよかったと思っています。毎日9時出社の24時退社。残業は毎月100時間を超えていました。デザインの仕事もしているので給料を上げてほしいと交渉し、5万円上がって30万円近くもらえるようになりましたが、動悸がしたりと、明らかに体の調子がおかしくなってきました。
このままでは倒れてしまうと、退職をしたら退職理由を自己都合にされていたので、ハローワークで申請し、会社都合にしてもらいました。そうすると失業保険が6カ月出るので」
ここから約1年、無職の期間に突入した。
「当時35歳だったのですが、職を探しても35歳という年齢で、書類審査の時点で足切りされてしまうんです。スキルも資格もないので職も転々としていますし。面接までたどり着いたとしても、職歴のひどさから落とされてしまっていました」
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