三菱系建機会社を勤め上げ起業した76歳の胆力 油圧ショベルから「竹林」に商機を見出した

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佐野さんは1942年、東京・東陽町の生まれで、8人きょうだいの下から2番目。一家は戦災で焼け出され、1週間ほど母親の郷里である群馬県安中市で過ごした後、父親の郷里である大分県の国東半島に移り住んだ。佐野さんが小学3年の夏、東京に舞い戻り、中野区鷺宮に居を定めた。

都立武蔵丘高校を経て、東京大学農学部農業工業科に進んだ。1966年に大学を卒業し、キャタピラー三菱(現・キャタピラージャパン)に入社、当初は技術畑に配属された。以後、順調に出世し、2000年には関連会社である西関東販売会社の社長に就任した。売り上げ低迷の販売会社の経営を立て直すよう求められたのだ。

「それまで西関東には本当の営業がなかったんです。得意先を一度も訪ねたことがない管理者さえいた。私のあいさつ回りに担当者が同行するのはいいけど、私と一緒に先方の社長さんや担当部長に名刺を渡している。初めて顔を合わせたんでしょう。ひどいものです。

私が立てた目標は、得意先が必要とするものは、なんでもそろえてお届けすること。それがキャタピラー三菱で扱っている商品か、そうでないかなど関係ない。とにかく顧客のお役に立つ。社員にやる気が出れば、決して難しい仕事じゃない。もちろん社員の尻をたたくだけでなく、成績のいい人は褒め、優秀者は表彰する。これで営業の目の色が変わってきて、黒字に転換、全国の販売会社中トップの成績を上げるまでに立ち直りました」

竹の伐採をビジネスへと結びつける

会社はブルドーザーのトップメーカーだったが、1987年に新社名(新キャタピラー三菱)になったあたりからバックホー(油圧ショベル)が主力商品になった。一貫して土木・建設関係が得意先であり、その関係から「竹がはびこって杉やヒノキ林まで侵食する。何とかならないか」という相談も舞い込んだ。

当時、竹粉が土壌改良によく、田畑に撒けば収穫量が増すことが知られていたし、竹粉製造機さえ販売されていた。佐野さんは製造機を販売会社で扱い、30台ほど売ったが、すぐその製造機には改良の余地があると気づいた。何しろ大学の農業工業科では半分以上の講義を工学部で受けたのだ。機械にはもともと強く、日ごろから親しんでいる。

竹の幹には無数の維管束がある。維管束中に乳酸菌が何億と生息している。竹をただ破砕すると、維管束が壊れ、せっかくの乳酸菌を殺して土壌改良の効果も落ちる。乳酸菌を生かすためには竹を数ミクロンの厚さで垂直に断ち切り、維管束の多孔質を残さなければならない。そこを改良するよう竹粉製造機メーカーの社長に伝えたが、社長は改良しようとはしなかった。

佐野さんは2003年、上席執行役員として本社に復職し、2004年、常務取締役に就任した。2006年6月に常務を退任、7月には東京大学大学院農学生命科学研究科の受託研究員の資格を得た。竹粉にしっかり取り組むためには電子顕微鏡や各種の分析機器など、科学技術を活用しなければならない。研究員の資格はそれを可能にし、しかも東大工学部や農学部の教授などに教えを乞いやすくした。

次ページ竹の経済価値を高めるため、高速竹粉製造機を製造
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