かつて大田区の中心は蒲田でなく「大森」だった 外国人や政財界の大物が愛した高級住宅街

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大森に詰めていた作業員の多くは日本人だったが、現場監督・技術者といった指導的な立場には外国人が少なくなかった。その外国人の多くを占めたのがドイツ出身者だった。

京浜東北線を見渡せる線路脇に建立された大森貝塚の碑(筆者撮影)

当初は作業員の便を図る目的で開設された大森駅だったが、駅開設直後に思わぬ福音がもたらされる。来日した動物学者のエドワード・シルヴェスター・モースが、大森貝塚の存在に気づいたのだ。モースは大森駅停車中の列車内から貝塚を発見している。駅がなければ一瞬で通り過ぎてしまうから、気づくことはなかっただろう。大森駅の存在が、世紀の発見を生んだ。

駅が開設されてからの大森駅は、目覚ましい発展を遂げていく。1884年には、駅西側に高級庭園料亭の八景園が開業する。大森駅から都心部への好アクセスが富裕層の目にとまり、大森駅の西側に広がる高台、現在で言うところの山王に高級住宅街が形成されていった。

大田区の高級住宅街と言えば田園調布が知られているが、田園調布の開発は関東大震災以降に本格化し、歴史的に大森よりも後発だ。

田園調布よりも約30年早くから、山王の開発は始まった。山王の高台は「木原山」との別名がつけられ、木原山には内閣総理大臣を務めた桂太郎、西園寺公望、清浦奎吾、芦田均、明治の元勲でもある井上馨、大審院(現・最高裁判所)院長を務めた児島惟謙、鹿児島県知事などを歴任した加納久宜などが邸宅を構えた。

政財界の大物や文士が集う街に

戦後になっても、木原山には政財界の大物が住んでいる。自民党ナンバー2の権力者として政界に隠然たる力を発揮した川島正次郎が邸宅を構えたほか、元総理大臣の宮澤喜一も幼少期を過ごした。

大森駅西側の高台につづく道には、総理大臣・清浦圭吾に由来する「清浦さんの坂」がある(筆者撮影)

木原山には日本帝国小銃射的協会が隣接するように開設されたが、射的場は住民たちが交流するテニスクラブへと姿を変えた。テニスクラブは地域住民の社交場として機能した。そして、そのテニスクラブは現在に至っても営業している。

木原山に隣接した馬込には、同じく文士たちが集う馬込文士村も形成された。馬込文士村が形成されたのは政財界の重鎮たちが木原山に邸宅を構えた時期より遅いが、多くの文士が住み、文化を発信したこともあって今では馬込文士村のほうがメジャーな存在になっている。

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