かつて大田区の中心は蒲田でなく「大森」だった 外国人や政財界の大物が愛した高級住宅街

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大森駅と大森海岸駅の間には商店が並び、多くの人が訪れるようになると、1929年に白木屋百貨店大森分店(現・東急ストア大森店)がオープンする。白木屋百貨店大森分店は、ドイツ建築の影響を強く受けた建築家・石本喜久治が設計を手がけた。白木屋が店舗を構えるほど、大森駅東口は商業地としてにぎわった。

さらに、大森支線の開業とほぼ同時に、京浜電鉄は大森地区で電力供給を開始。こうして、官と民の鉄道によって、大森は住宅地としても商業地としても発展を遂げた。

だがその後、都心へ乗り入れるために京浜電鉄が線路を品川駅まで延伸すると、大森駅と大森海岸駅の間、約0.7kmの区間は支線に転落。利用者は減少し、大森支線は1937年に廃止された。また、1930年に東海道本線は停車しなくなり、大森駅は京浜線のみの停車駅になったものの、地域の発展は続いた。

大森の地域振興や産業発展を語るうえで、忘れてはならないのが大森倶楽部2代目委員長に就任した加納久宜だ。明治初期、加納は鹿児島県知事や千葉県一宮町長を務める名士だった。

木原山に居住した加納は、地場産業を振興させるべく入新井信用組合を設立。加納は、公益事業の振興こそが地域発展につながると説いた。そして、信用組合の設立によって、教育や農業といった公益事業への投資モデルを構築する。

加納の設立した入新井信用組合は、全国の協同組合の模範とされた。入新井信用組合は1951年に城南信用金庫と名称を変えて今に至るが、加納の掲げた公益事業重視の思想を連綿と受け継ぐ。福島第一原発事故後、城南信用金庫はいち早く脱原発を表明。原発に依存しない社会づくりに取り組んでいる。

駅がもたらしたドイツ文化

大森駅の開設は、大森に外国文化を流れ込む作用ももたらした。

明治期の鉄道工事では、外国人技術者が指導的な役職についていた。そのため、大森には外国人居住者が多かった。特に、鉄道作業員にはドイツ人が多くを占めたこともあり、大森にはドイツ人のコミュニティが自然発生的に生まれる。そうした影響から、1925年には大森駅西側に東京独逸学園が開学する。

東京独逸学園の敷地は、約4000平方mと狭かった。時代とともに学校敷地も広さが重視されるようになり、1991年には老朽化などの理由もあって横浜市の港北ニュータウンへと移転した。

60年にわたって日独友好のシンボルとして地域住民から愛された東京独逸学園は、大森から姿を消した。東京独逸学園は消失したものの、大森駅西口から環状7号線までを結ぶ道路にジャーマン通りの名称が残されて、ドイツの残り香を漂わせる。

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