明治時代にスポーツを広めた「欧米人」の功績 外国人に大勝したのは東大前身の一高だった
横浜に英国の商人が居住するように
19世紀の半ば、ヴィクトリア女王治下の英国では産業革命によって生産力が飛躍的に向上し、世界最大の経済大国となった英国の工業製品は世界に輸出され、その通商路は世界最強の海軍力によって守られていた。アジア大陸ではインド亜大陸を支配下に収めた英国がさらに東進してシンガポールを植民地化し、中国まで勢力圏を伸ばしていた。
英国をはじめとした西欧列強がアジア進出を図るそんな時代に開国した日本は、条約に基づいて1859(安政6)年に横浜を開港し、横浜の居留地には英国など各国の商人が多数居住するようになった。
当時の英国のエリート層はスポーツが大好きで、植民地や居留地では町の中心に芝生の広場を作ってクリケットやフットボールといったスポーツに興じていた。横浜の居留地も例外ではなく、当初は山手の英国陸軍駐屯地内などでスポーツが行われていたが、その後根岸の丘に競馬場が造られ、1875(明治8)年には火事で焼失した遊郭の跡地に「彼我公園」が開設される。公園の中央には芝生の広場が作られて、そこでクリケットやフットボール、ベースボールなどが行われた。
これが現在の横浜公園であり、芝生の広場の跡地に建設された横浜スタジアムはプロ野球・横浜DeNAベイスターズの本拠地として使用されており、2020年の東京オリンピックでも野球の会場となる予定だ。
ヨーロッパや南米諸国では、英国人たちがスポーツに興じていると、現地の市民が飛び入りで参加したり、自分たちでクラブを作ってスポーツを始めたりしたものだ。日本でも外国人のスポーツを見物しに集まった人は大勢いたらしいが、残念ながら飛び入りで参加した人はいなかったようだ。当時の日本人と欧米人では、歩き方や走り方すら違ったのだから、一緒にスポーツを楽しむことは難しかったのだろう。
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