明治時代にスポーツを広めた「欧米人」の功績 外国人に大勝したのは東大前身の一高だった

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日本人が最初に近代スポーツに親しんだのは、明治政府が近代化のために設置した学校でのことだった。教師として来日した英国人や米国人が日本人学生にスポーツを教えたのだ。英国人や米国人にとって、学生生活においてスポーツは不可欠のものと考えられていた。また、そもそも「学校」というのは欧米の近代的な科学技術や制度、思想などを学ぶための施設だったのだから、学生たちが欧米生まれの近代スポーツに親しむのは、むしろ当然のことだったとも言える。

海軍兵学寮で行われた、運動会の原型「競闘遊戯会」

東京の築地に設けられた海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)の教官で英国海軍軍人だったアーチボルド・ダグラス中佐は、海軍士官の卵たちに馬術などを教え、また「競闘遊戯会」を開催し、フットボールも行ったと言われている。「競闘遊戯会」は陸上競技会であり、現在も日本各地で行われている運動会の原型ともなった。いずれも、1873(明治6)年から翌74年にかけての冬のことだ。

同じころ、東京・虎ノ門にあった工部省工学寮(東大工学部の前身)でも、スコットランド人技師のライマー・ジョーンズの指導の下、当時は空き地となっていた溜池でフットボールやクリケット、ベースボールなどが行われていた。

当時の学生名簿を見ると、海軍兵学寮では後に総理大臣にもなる山本権兵衛や加藤友三郎など、工学寮では東京駅駅舎の設計などで知られる日本の建築界の第一人者、辰野金吾などの名前も見える。彼らも学生時代にはスポーツ活動に参加していたのであろう。

ただ、兵学寮の場合も、工学寮の場合も、ダグラス中佐やジョーンズ技師などが帰国してしまうと、スポーツ活動は次第に忘れ去られてしまった。

明治政府は国の近代化=西洋化のために、近代的な(西洋式の)学校制度を整えた。そして、西洋の学問を学ぶためには語学力が必要だったので、全国の旧制中学校には英語教師として多くの外国人が赴任しており、彼らも生徒たちにスポーツを教えた。

また、明治政府は西洋化の一環として体育教育も取り入れようとしており、1878年には「体操伝習所」を設置して欧米のスポーツ事情の研究を始めた。体操伝習所は86年に東京高等師範学校(東京高師)に吸収されたが、同校で校長を務めていた嘉納治五郎も学生たちにスポーツを奨励した。

柔道の創始者としても知られる嘉納は、後に大日本体育協会を設立して1912年のストックホルム・オリンピック参加のために尽力する。

同年春には東京・羽田に仮設の競技場を作って、オリンピック予選会が開催された。陸上競技会は海軍兵学寮や東京大学などでもすでに開かれていたが、羽田の競技会は現在の日本陸上競技選手権大会の前身となる本格的な競技会であった。この大会のマラソンで金栗四三が当時の世界記録を大きく塗り替える記録を樹立したことはNHKの大河ドラマ「いだてん」でも紹介されたが、それよりはるか以前の1902年には後に外交官として活躍する藤井實が、東京帝国大学の運動会で100メートル10秒24という世界記録を出したこともあった(藤井は棒高跳びでも世界記録を超えた)。

これらの記録は国際的に公認されたものではなく、信憑性に疑問を抱く向きもあるが、当時の日本人選手の競技レベルが国際的に見劣りするものでなかったのは確かなことだろう。

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