明治時代にスポーツを広めた「欧米人」の功績 外国人に大勝したのは東大前身の一高だった

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1899年秋、教員クラークの指導で、慶應義塾で日本初のラグビー競技が行われた(写真:『ラグビーフットボール』1924年、慶應義塾体育会蹴球部編、時事新報社より)

さて、東京高師では運動部の1つとして1896年にフートボール部(サッカー部)が作られ、彼らが初めて本格的にサッカーに取り組むことになる。そして、同校の卒業生は全国の中学校などに赴任してサッカー部を創設。サッカーは全国に普及していった。

一方、ラグビーに初めて本格的に取り組んだのは慶應義塾で、在日英国人のエドワード・B・クラーク教授と田中銀之助によってラグビー部(蹴球部)が創設されたのは1899年のことだった。

サッカーやラグビーを志した若者たちの目標は横浜の外国人クラブだった。あの横浜公園の芝生のグラウンドに出向いて、外国人クラブ(YC&AC)の胸を借りたのだ。

外国人クラブに大勝した!「一高野球部」

サッカーやラグビーよりも早く日本中に普及し、強化も進んだのは米国生まれのスポーツ、ベースボール(つまり野球)だった。その理由の1つは、米国人教師が数多く日本にやって来たからだ。1869年にスエズ運河が開通したとはいえ、ヨーロッパから極東の島国に至るには距離的にも経費的にも負担は大きかった。一方、米国ではスエズ運河と同じ69年に大陸横断鉄道が開通しており、列車でカリフォルニア州まで来てサンフランシスコから乗船すれば、比較的容易に日本に来ることができた。そのため、全国の中学校には多くの米国人教師が赴任し、彼らはちょうど近代的なルールが確立したばかりの野球を日本に伝えたのだ。

サッカーはまず各地の旧制中学校に普及し、その卒業生たちが旧制高等学校や大学にサッカー部を作ってから本格的な強化が進んだ。中学生よりも年齢が高い旧制高校や大学の学生は体力もあり、プレー経験も豊富だったため、競技力は中学より高かったのだ。だが、野球の場合は1871(明治4)年という早い時期に、旧制高校である東京開成学校(第一高等学校の前身)で野球が始まった。同校予科に英語教師として赴任した米国人のホーレス・ウィルソンが野球を伝えたのだ(第一高等学校、一高は東京大学の前身である)。

野球は一高の校技となり、それから25年が経過した1896年に一高野球部は横浜の外国人クラブに対してなんと29対4という大差で勝利を収めることになる。東京高師のサッカー部や慶應義塾のラグビー部が産声を上げるより前のことである。

当時、日本政府は幕末に締結された不平等条約を改正するための交渉に苦労していた時期だっただけに、一高野球部の快挙は新聞などで大きく取り上げられて日本人のナショナリズムを刺激し、野球人気は一気に高まった。

その後、一高に代わって早稲田や慶應などの大学野球部が台頭すると、始まったばかりのラジオの実況放送を通じて大学野球(現在の東京六大学野球連盟)は全国的な人気を集める。一方、関西では朝日新聞社の後援で1915年に全国中等学校優勝野球大会が始まって絶大な人気を博し、24年には阪神電鉄が5万人収容の大規模な野球場「甲子園運動場」を建設した。

こうして盛り上がった日本の野球熱は21世紀の現在になっても衰えることなく、日本で最も人気が高いスポーツとしての地位を保っている。

後藤 健生 サッカージャーナリスト

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ごとう たけお / Takeo Goto

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。元関西大学客員教授。著書に『国立競技場の100年 明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』『日本サッカー史 日本代表の90年』『世界スタジアム物語 競技場の誕生と紡がれる記憶』ほか多数。

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