「役に立つ学問」が事前にはわからない根本理由 「モンゴル×超ひも理論×シロアリ」で考える
「文化人類学の学生は、もう本当に好き勝手にいろんなことをやっている。場所もテーマも、どうしてそれが面白いのか、私にもわからないことがある。すごく細かいことを調べてきて、そんなどうでもいいようなことを調べてどうするんだろうと。ただ、そのオタクさをどれだけ普遍性に近づけられるか。ほんの10センチぐらいの違いだが、その感覚がある子とない子がいて、そこが博士論文を書けるかどうかの分かれ目になる。それが研究と学問の違いであり、中心に向かう力の有無じゃないか」
「今は役に立たない、でも、いつか役に立つかも」
「予定調和なし」とうたって始まった知と有用性をめぐる議論は、会場も巻き込んで120分間フルに続き、さまざまな論点が示された。
「人類社会が困難に陥ったときに生き延びられる資源、いわばオルタナティブな選択肢を準備しておくのが学問の役割」「有用性はとても重要だが、それに引っ張られすぎないことが大事」「人間が自ら問う領域が損なわれていき、問う存在としての主体性を失うと、AIに食われて終わる」……。
有用な学問とは何か。予算を割くべき研究分野をどう決めるか。一つの決まった結論が出る論題ではない。終わり近くで大竹氏が述べた意見が、現在の学問と有用性をめぐる問題を改めて浮き彫りにしていた。
「財務省の役人に言わせれば、大学や学問にかける予算と、年金や医療とどっちが大事なのという話になる。だから、どれだけ役に立つの、どれぐらい価値があるのと問われたときには、われわれの側から『今まで役に立つと思ってなかったことが突然役に立った例』を常に出していかないと、理解してもらえない。
『その研究は何の役に立ちますか』と聞かれて、基礎科学の人はよく、『役に立ちません』と言い切るが、これはよくない。まず、その研究が多くの人に面白いと思ってもらえた時点で、世に中の役に立っているという認識を持つことが重要。そして、『役に立たない』と言い切るのではなく、『いつか役に立つかもしれない。そのときがいつ来るかはわかりませんが』という前提で言う必要がある」
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