歌舞伎町の喫茶店文化は「台湾人」がつくった

戦後初の名曲喫茶、新宿「らんぶる」誕生秘話

名曲・珈琲「新宿 らんぶる」。1975年に建て替えられているが、店内では 1955年当時の椅子やテーブルが 使用されており、新宿区の地域文化財にも指定されている(撮影:沼田元氣)
終戦後数日にして、ほぼ焼け野原となっていた新宿駅前に 「ヤミ市」が出現する。 そのなかには、戦前から日本に滞在していた台湾人の内地留学生もいた。 新宿・歌舞伎町のなかで広く名を知られた名曲喫茶 「らんぶる」「でんえん」「スカラ座」 、 さらに 「地球会館」「風林会館」「アシベ会館」など娯楽文化施設も、台湾人がつくった。 名曲喫茶に焦点を当て、歌舞伎町に携わった台湾人たちの 知られざる功績を、貴重な証言とともに紹介する。

なぜ台湾人なのか?

新宿駅東口の中央通りにある名曲喫茶「らんぶる」は、昭和世代にとっては懐かしい店である。1階から狭い階段を降りていくと、地下1、2階が吹抜になっている贅沢な空間が現れる。クラシック音楽がゆったりと流れる店内には、昨今の純喫茶ブームで若い客も増えてきた。1950年に登場したこの「らんぶる」こそ、新宿に数多あった喫茶店のなかでも、戦後初の本格的な名曲喫茶だったのである。

名曲喫茶といえば、かつて歌舞伎町にあった「でんえん」や「スカラ座」も有名だった。新宿を代表するこれらの店は、実は台湾人によって産み落とされた。

名曲喫茶ばかりではない。「カチューシャ」「ぶるんねん」「上高地」「シオン」や、風林会館の「パリジェンヌ」など、青春時代を歌舞伎町で過ごした人ならば誰もが知っているこれらの喫茶店も、台湾人の手によるものだった。なぜ台湾人なのか?

本記事は『東京人』2019年6月号(5月2日発売)より一部を転載しています(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)

戦後も日本に残った台湾人のなかには、戦前、本土(=日本)の大学に進学した内地留学生が多い。彼らは、もともと恵まれた家庭の子弟であった。しかし、日本の敗戦によって状況は一変する。一度は日本人と同じように生活に窮したが、 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、朝鮮人・台湾省民・中国人は“解放国民” として扱うとしたので、彼らはGHQやPX(米軍購買部)の横流れ品など統制品を扱うことができる特権を得た。なかでも新宿西口マーケット(ヤミ市)は、“中華街”と称される時期があったほど台湾人が集まっていて、彼らは後に新宿や歌舞伎町にも進出していった。

ここからは、新宿の喫茶店のなかでも 異彩を放った名曲喫茶に焦点を当てよう。「らんぶる」は呂芳庭(ろほうてい)、「でんえん」 は林金水(りんきんすい)(兄)、「スカラ座」は林金聲(りんきんせい)(弟) という台湾人が経営者である。彼らも、もとは内地留学生だった。呂芳庭の実家は台中郊外の地主で、呂赫若(ろかくじゃく)(日本語作家/声楽家)は呂芳庭の伯父にあたる。

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