歌舞伎町の喫茶店文化は「台湾人」がつくった

戦後初の名曲喫茶、新宿「らんぶる」誕生秘話

林兄弟は台湾・台中でも著名な一族の出身だった。両家は台中時代から交流があり、特に呂芳庭と林金聲は、後に家族ぐるみで付き合うほど親しかった。また呂芳庭は医大卒、林金聲は薬科大卒。ともに衛生好きのインテリで、かつクラシック・ファンだった。

ほかの台湾人が手をだすキャバレーやパチンコなどの商売を敬遠していたふたりにとって、名曲喫茶は、まさに趣味が高じて生まれた世界だった。しかしその世界を具現化できたのは、彼らが台湾人だったからともいえる。呂芳庭は、GHQの米国人を通して、当時としては貴重な輸入品のLP盤レコードを入手した。 林金聲は、それまでにヤミ市で稼いだ資金を注ぎ込んで、高価なオーディオ機器を店内に備え付けた。

呂芳庭の子息、呂明哲(ろめいてつ)氏が、ある集会で 「なぜ名曲喫茶だったのかと言えば、父には西洋への憧れがあり、西洋理解のためのフロントマンでありたかった」と語ったように、「らんぶる」は、建物そのものが西洋への入口であった。

商船構造からアイデアを得た吹抜階段がある店内

1955年に現在地に移転して新築された「らんぶる」は、煉瓦の壁面と正面に列柱が並ぶ洋風の外観で、内部には1階から3階まで吹抜階段があり、木材を多用した風格あるつくりだった。実はその直前に、呂芳庭と妻はブラジルの珈琲農園視察旅行のために、商船で横浜からサイゴン、モザンビーク、ケープタウンを経由して、ブラジルのサントスまで行っている。だから「らんぶる」を象徴する吹抜の木造階段は、商船の構造からアイデアを得たというのである。

1956年ごろの2代目「新宿 らんぶる」の外観(建築写真文庫 58『洋風喫茶店 3』彰国社より転載)

また地下1階には音楽愛好家のための鑑賞室があり、正面には最先端の大きなスピーカーがあった。その前でタクトを振る客もいた。店には専門の係がいて、プログラムを編成し、新しいLP盤が入ると解説付きで紹介した。

歌舞伎町にあった「でんえん」や「スカラ座」も、西洋風の建物だった。特に 「スカラ座」は「らんぶる」と同じ大工の手によるもので、内部には吹抜空間があり中央に暖炉が置かれていた。また各階ごとに造作が異なっていて、壁面のステンドグラスや木彫りのレリーフ、プログラムやマッチのデザインなど、モーツァルト好きだった林金聲が、細部に至るまで趣向を凝らした。

「スカラ座」と「らんぶる」では、ミッドナイト・コンサートも開催された。大谷石と赤煉瓦の壁面に蔦がからまるレトロな趣の「スカラ座」は、多くの人びとに愛され、惜しまれながら2002年に歌舞伎町での歴史を閉じた。でも、もう一度「スカラ座」に出会える場所がある。それは中軽井沢駅の北口にある「新宿スカラ座」。2代目林岱山(はやしたいさん)氏の店には、懐かしい写真やプログラムが飾られている。

一方、「らんぶる」と姉妹店「琥珀」 は、かつて都内各所にあわせて10店舗くらいあったが、今は1975年にビルに建て替えられた現在の「らんぶる」が残るのみである。呂明哲氏によれば「喫茶店は赤字だけど、名曲喫茶発祥の地ということで、いいのよ。寺山修司は一時期 『書を捨てよ、町へ出よう』って言っていたけれど、今の僕なら『スマホを切って、町で議論を』だな。うちの店がそんなスペースになればそれで十分」とのこと。

戦後、新宿の喫茶店文化を興し、その一翼を担ったのは、日本統治時代に生まれた台湾人だったのである。

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