甲子園で誰よりも勝った「髙嶋仁監督」の生き様 智辯和歌山での葛藤と決断の日々

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大人の裏表を見抜くことに長けた高校生たちのこと、うわべの言葉や指導ならすぐに見破り、心離れただろう。しかし、髙嶋は彼らの印象をおそらくそれぞれの3年間裏切ることがなかった。揺るぎない信頼関係が出来上がった中なら、時に1発、2発が飛んできても何ということはなかった。

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ただ……。髙嶋と選手の関係は変わらなかったが、時代は変わった。

2009年秋の練習試合中、生徒に足が出たことがあった。目撃者から高野連へ通報が入り、謹慎3カ月。後にも先にも監督として処分を受けたのはこの一度だけだが、高校野球を取り巻く環境、智辯和歌山を取り巻く環境の変化を示す“事件”だった。

ここから勇退までの10年間、練習法や選手への接し方……。自らが信じ、貫いていたものが揺らぐ中、自問自答を繰り返す時間となった。

晩年は、70歳を超え、忍び寄る老い、内科系の難病とも闘いながら、まさに満身創痍。ノックに賭けてきた男が思うようにノックを打てなくなった。それでも……とノックバットを握ると、打ち終わったあと金網をわしづかみにしながら息を切らせ、しばらく動けなくなることもあった。

ノックの翌日、背中半身に真っ赤な発疹が出たこともあった(帯状疱疹)。日本一の練習には日本一の練習をさせられる体力が指導者にも必要と、かつてはほぼ毎日10キロを走り、晩年は早朝から4時間半をかけて山道を登る高野山詣で体と心を鍛え続けた。しかしその面からも、こだわってきたものが崩れた。最後の数年はユニフォームを脱ぐ時期をつねに考えながら、大好きなグラウンドと別れる寂しさ思い、葛藤する日々でもあった。

髙嶋監督が貫いた姿勢から学ぶべきもの

昨夏“決断”を下した後、しみじみと口にした言葉が耳に残る。

「俺はええ時代にやらせてもろうた。これからの指導者はほんまに大変や」

指導、教育の正解は1つではない。その中で難しい時代にグラウンドに立つ指導者たちがこの男に学ぶべきものがあるとすれば、理論や理屈より、髙嶋がグラウンドで見せた姿、姿勢なのだろう。

何よりも己に厳しく、決して妥協せず、やると決めたらとことん……。ここへ少しでも近づけたなら、時代が変わっても変らないものが見えてくるのではないか。

(文中敬称略)

谷上 史朗 ライター

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たにがみ しろう / Tanigami shiro

1969年生まれ。大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。県立長崎東高校時代は頼りない外野手だったが仲間に恵まれ3年夏に長崎大会準優勝。イベント会社勤務から30歳で脱サラしライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)、web Sportiva(集英社)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『崖っぷちからの甲子園―大阪偕星高の熱血ボスと個性派球児の格闘の日々』(ベースボール・マガジン社)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。阪急ブレーブスと沢田研二をこよなく愛し続ける物憂げ系。今の高校野球界を引っ張る“西谷世代"でもある

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