甲子園で誰よりも勝った「髙嶋仁監督」の生き様 智辯和歌山での葛藤と決断の日々

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 卒業後は、日本体育大学へ進み、教員免許を取ると、1970年春に赴任したのは奈良の智辯学園。ここからは、のち理事長となり、髙嶋を鍛え上げていく藤田照清監督(故人)の強烈な“圧”に耐える日々が始まった。

大会に敗れ報告へ向かうと「何回負けとるんや!学校潰す気か!」と吹き飛ばされそうな勢いで凄まれた。パワハラの言葉など影も形もない時代。ひたすらクソッタレ!と奥歯をかみしめ、耐えるしかなかった。やがて、その存在が自らの力を引き出すものと知るようになるが、髙嶋にとって藤田は人生最大の難敵だった。

「奈良の時代はほんまにボロカスやった。さすがに自分から辞めようと思うことはなかったけど、もし、辞めるときはこのおっさんを殺したる、と思うことはあった(笑)。あの人がおったから今の自分があるのは間違いないけど、当時はそんなふうには思えんかったからね」

見返すには結果を出すしかない。グラウンドでは鬼と化し選手をしごいた。そして、後がないと覚悟を決めて挑んだ監督4年目。秋に近畿大会ベスト8に入り、翌1976年は春の選抜でついに甲子園出場を果たした。ここでベスト8。翌年にも春ベスト4、夏ベスト16。ところが、全国の頂点も見え、さあ、ここからという1979年、監督から外され副部長に。翌年には前年開設したばかりの智辯和歌山への異動を命じられた。

智辯和歌山の監督として一気に高校野球界の主役に

なんでや……。この処置が藤田が期待を込めてのものだったかはわからないまま、前年に春夏連覇を果たし絶頂期にあった箕島がそびえる和歌山で部員2人からの再スタートとなった。しかし、20年かかると思った甲子園に1985年春、6年目でたどり着くと、1987、1989、1991、1992年……と夏に続けて出場。

甲子園大会5連敗からのスタートではあったが、1993年夏に初勝利を飾ると、1994年選抜で日本一に。以降、1996年春準優勝、1997年夏優勝、2000年春準優勝、夏優勝、2002年夏準優勝……。一気に高校野球界の主役に躍り出た。 

髙嶋の何が凄いのか。選手、OBらが語って来たのはその理論や理屈より、グラウンドで見せる姿、姿勢、そして、人としての魅力だった。

「僕らの頃は髙嶋さんも30歳になった頃で、エネルギーもあり余っていて、もちろんとんでもなく厳しかった。でも、厳しさの一方で強く残ってるのは僕らと同じ野球小僧だったということ。本当に朝から晩まで僕らにつきあってくれたし、夜の練習なんかでは兄弟みたいに近い雰囲気を出してくれることもあった。だから今、ごつい熊みたいな顔ももちろん記憶に残ってますけど、熊が笑った顔もしっかり残ってる。それが懐かしいし、うれしいんです」(智辯学園1977年主将、中葉伸二郎)

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