甲子園で誰よりも勝った「髙嶋仁監督」の生き様 智辯和歌山での葛藤と決断の日々
選抜大会が行われた甲子園のネット裏で顔を合わせると「なんやかんや忙しいやってるわ」。明るい顔と共に返してきたが、グラウンドへ向けた視線は少しうらやましげに見えた。智辯学園(奈良)、智辯和歌山(和歌山)を率い甲子園出場38回、通算68勝(共に歴代1位)。
昨夏を最後に智辯和歌山の監督を退いた髙嶋仁(現・名誉監督)は、何よりも高校野球とグラウンドが好きな男である。
出身は長崎県五島列島の福江島。1946年5月、終戦間もない九州最西端の地で団塊世代のトップをきって生を受けた。野球を始めた中学校のチームで男気あふれる指導者に出会い、グラウンドへ向かうのが一層楽しくなった。外野手兼投手だった中学3年の夏、五島のチームとして初めて県大会を制覇。
自信も芽生え、翌春、弟が2人もおり経済的には極めて厳しかったが、“野球で勝負をしたい”と島を出た。進んだのは長崎市内にある私立の海星高校。髙嶋が中学1年の夏に甲子園初出場、3年時には春夏連続出場。昇りゆく勢いに乗っていた強豪校のグラウンドは活気と殺気に満ちていた。
辞めそうになると島の母を思い出し踏みとどまった
1年時の練習はグラウンドの外をひたすら走ることと、ネットへ向け球を投げ続けること。合間には指導者、上級生からしばしば“気合”を入れられた。当時の練習グラウンドには三塁側奥に防空壕の跡が残っており、そこへ1年生が呼ばれると、しばらくし、中から重い音が響いてきた。
ベースランニングでは、一塁ベースの横で上級生が走者の通過に合わせ、ブンッとバットを振っている。膨らまずに走らせるため、という理由だが、一歩間違えば……、の世界。髙嶋が指導者となってからベースランニングを全体練習の中でほとんどさせなかったのは「あの頃を思い出すから」だ。
入学時、ゆうに100人を超えていた同学年の部員が最後にはマネージャーを含め11人となった。髙嶋も何度も辞めそうになったが、そのたび思い出したのが母の顔だった。父を説得し、自身は寝る間を削り内職。島から送り出してくれた母への思いがグラウンドに踏みとどまらせた。
高校2年、3年の夏に甲子園出場。初めて立った開会式の感動がその後の道を決めた。
「グラウンドから見たら360度ぎっしりお客さんが入っていてスタンドは真っ白、空は真っ青。そんな中を歩くんやから、そら足も震えるし、ホンマに辞めんでよかったって思うてね。また絶対帰ってくる、将来も指導者になって帰ってくる、ってあのとき決めたんです」
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