MMTも主流派経済学もどっちもどっちな理由 「レバレッジを制御できないこと」が問題だ!
だが、当時から日本の債券ストラテジストたちは、このメカニズムについて正確に把握、指摘していた。すなわち、財政赤字による国債発行はマネーサプライを増加させ、それは銀行の預金を増加させる。あるいは、「預貸ギャップの拡大」を招き「貸出に対する預金超過」を生む。それは、銀行の国債保有を促す形となり、結局、長期金利の上昇をもたらさないだろう――。このように予想していた者が少なくなかったのである。つまり国債発行が貸出の大幅な増加に結びつかない、財政による乗数効果の低いことが景気対策の効果が細っている理由でもある。
なお、「翁-岩田論争」は、中央銀行のマネーサプライ・コントロール能力に焦点を当てた議論であったが、財政政策、金融政策を共通の土俵で扱い、マネーサプライとの関係を分析するという作業を古くから行なっていたのも、世界の中央銀行のなかで実は日銀であった(末尾のコラム参照のこと)。
MMTも主流派も単純すぎて現実離れしている
MMTの論者は、中央銀行が雇用やインフレに及ぼす影響力はなく、すべてを創出するのは財政政策だと主張するが、この主張は「明確な誤り」である。金融政策は、局面によってはほとんど無力に近い時もあるが、メカニズムとしては民間部門債務と海外債務の変動を通じてマネーサプライを増減させ、雇用やインフレに影響を及ぼすことがある程度はできる。
しかし、「マネタリスト的」な金融政策万能論を振りかざすタイプのニュー・ケインジアンによる「金融政策こそがすべて」という主張も、同じくらい「明確な誤り」である。2000年代の日本のケースなどは、翁邦雄が主張したように、マネーサプライの変化を通じて中央銀行が雇用やインフレに影響を及ぼす経路が非常に細っていたのである。どちらの議論も、リアルな経済と資金の流れをあまりにも「単純化」しすぎていると言わざるを得ない。
確かに「財政」によるマネーサプライ増減のメカニズムは「シンプル、直接的」ではある。しかし、それでも減税資金が100%預金されてしまうのか100%支出されるのかによって、実体経済へのインパクトは大きく変わってくる。一方、「金融政策」によるマネーサプライ増減のメカニズムは、民間部門債務が増減する複雑なメカニズムのある部分しか担っていないという意味で、その波及経路はより分かりにくい。
しかし、いずれにせよ、「将来の成長期待」「競争環境」「技術革新」「金融規制」さらには「社会全体のセンチメント」まで実に多岐にわたる要素が影響するのである。こういった複雑な要素を捨象して、「財政政策がすべてだ」「いや金融政策だ」と経済学者や評論家たちが主張をぶつけ合っている姿自体があまりにも現実離れしており、空想世界に生きているように見える。それこそクルーグマン流に言うならば、「はるかに多様な要素が影響しているんだ、バカ!」ということになる。
アバ・ラーナーが「機能的ファイナンス」というコンセプトで語ったのは、「財政赤字を善悪で判断するのではなく、雇用とインフレに影響を及ぼしうる唯一のツールとして、その結果あるいは効果で判断すべきだ」ということであった。しかし、現実には「財政政策」は唯一のツールなどではない。それどころか、その政策が効果に結びついていく経路には「リカード中立の程度」という非常に想定が難しい要素が介在するのである。「財政政策」は一つの「機能」なのだから、出てきた効果と結果だけを見てその適用可否を判断すればよいなどと安直に扱える、コントローラビリティのある(制御可能な)代物ではないのである。
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