88歳でようやく気づいた幸福な「年の取り方」 老いに抗わず受け入れて満足感を得るには

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知人たちがすでに備えている安らぎと生きがいを持って人生の最後を乗り切るには、頼りにすべきは筋肉ではなく脳であるべきだろう。加齢は鏡に映るものだけではなかったのだ。

加齢と向き合う方法を根本的に見直すため、生活を完全に変えるのではなく、小さなことから始め、日々の出来事に新しいアプローチで臨んでみようと私は思った。そのいい例が最近のランチでの出来事だ。

友人との大切なランチで起こった事態

私は騒がしいところで集中するのがとても苦手だ。その日、友人と屋外のレストランでランチをしていると、庭師が私たちのテーブルを囲む低木の下から落ち葉をブロワーで吹き飛ばし始めた。

通常はこうした騒がしい邪魔が入ると、私はかっとなって「終わるまで待ってくれ!」と怒鳴り、その後は沈黙していた。機械の音がやんでも、私の苛立ちのせいで会話は冷めたものになってしまう。その日のランチも私と友人の楽しい思い出ではなく、騒音に対する私の怒りの記憶になっていただろう。

束の間の邪魔者でさえも、友人との楽しいランチをつまらないものに変えてしまうことに私は悩んでいた。このランチはこれまでとは違うものにしようと思った私は、楽しい時は残りわずかだと知っていて、何にも自分たちの邪魔をさせない同年代の友人たちに倣うことにした。彼らはただ会話の声を大きくして、騒音も一時のものとして受け入れるのだ。

私は友人との会話を続け、騒音が耳に入ってはいるものの、それとは距離を置くようにした。この鍛錬はジムでのそれと似ていて、今回は私の心に課したのだが、レストランでも効果的だった。脳を精神的なフィットネスの中心に据えたようなものだ。

ブロワーの騒音を無視する練習をしても、年を重ねる過程で満足感を覚える力を身につけることはほとんどできない。でも、ランチが終わったとき、少なくともその満足感の妨げになっていた行動を変える最初の1歩は踏み出せた気がした。

これと同じような自制心があれば、私を待ち受ける衰弱、記憶力や聴覚、視覚の低下、友人の死、迫り来る最期を威厳を持って受け入れることができるだろうか? 運動をして心拍数を上げることで多少はそれができた。でもいま挑戦しているのは、私の内にある満足感を見つけることだ。その満足感が、まだ行ったことのない場所へと進む私を導いてくれることを願っている。

(執筆:Robert W. Goldfarb、翻訳:中丸碧)

(C)2019 The New York Times News Services 

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