ビジネスに「世界史の教養」が不可欠な根本理由 「最強のリベラルアーツ=世界史」の学び方
例えば清教徒革命やフランス革命が世界史の重要な事件とされる背後には、議会制民主主義の成立を近代社会の本質として歴史を見る枠組みがあります。コロンブスやジェームズ・ワットが重要な人物であるのは、ヨーロッパにおける資本主義の発展が現在のグローバルな資本主義経済を作り出したという枠組みで世界史を見ているからです。
裏を返せば、清教徒革命やワットを「重要語句」として暗記するとき、私たちは議会制民主主義が近代国家であるための本質的条件であるとか、あるいは資本主義経済の基本的なルールはヨーロッパで作られたものだといったような、もっと大きな考え方やものの見方の枠組みを、必ずしもそれとは知らぬ間にインストールされているということでもあります。
ディテールや物語性の次元の世界史の知識は、それだけではこうした枠組みを可視化することができません。どういう枠組みが背後にあると、どういう事実が前景に出て、どういう事実が後景に沈むのか。それを見通すための考え方の技法が必要なのです。逆にそうした技法を身に付けることで、私たちは無意識に私たちのものの見方にはめられた枠組みに自覚的になることができます。
世界史ブームの背景にあるもの
近年の世界史に関する関心の高まりは、「冷戦が終わった!」とか、「アメリカで同時多発テロが起こった!」といった「事件」のレベルに触発されているというよりも、もっと深い次元で起こっています。
例えば「武力による紛争の解決がふたたび常態化するのではないか」とか、「議会制民主主義の機能が著しく制約されたものになるのではないか」とか、「資本主義が終焉を迎えて、経済成長を前提とした社会はもはやありえなくなるのではないか」とか、あるいは「AIや生命技術の発達によって『人間』の概念が変わってしまうのではないか」といったような次元の変化を、不安に感じながら予感している方は少なくないのではないでしょうか。
実はいま挙げたような深い次元の変化の予感の背後には、共通の深い震源があります。それは「近代」という概念です。協調を志向するリベラルな国際秩序、議会制民主主義、経済成長を前提とした豊かな社会、そしてこうした達成を可能にした理性的行為者として平等な「人間」など、私たちがなじんできた「世界史」の主題や基調は、こうした「近代」の達成の物語を描く枠組みに深く埋め込まれています。
しかし実際には、その枠組みの前提で「近代」の「達成」とされているものが、まさに今揺らいでいるわけです。このことは、ただちに近代が終わったとか、近代的な価値がただのイデオロギーでしかなかったということを意味するわけではありません。
しかし、例えば民主主義や人権といった極めて重要な近代的価値を擁護する場合にも、それをこれまでと同じ枠組みのなかで自明に普遍的な達成だとみなすだけでは十分ではなく、むしろこれまでの枠組みを、さらに広い視野やさらに深い次元に開いて位置づけ直す必要が出てきたと言うことはできるでしょう。
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