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東京湾の埋立事業は戦前期より計画が進められていたが、それまでの千葉県は開発行政に抑制的だった。戦前期は千葉港の南側に日立航空機の工場が建設されたぐらいにとどまり、そのほかに目立った動きは見られない。
東京湾を挟んで反対側に位置する神奈川県は、横浜という開港場のおかげもあって、明治期から発展を遂げている。さらに、東京と横浜という2大都市に挟まれた川崎には工場が次々と建設されて京浜工業地帯を形成する。
同じ東京の隣という立地ながら、千葉県は神奈川県に大きく水をあけられた。それが千葉県の政治家をやきもきさせる。
戦災復興が一段落する1950年代に入ると、千葉県の姿勢にも変化が生じる。千葉県の戦災復興を主導した初代公選知事の川口為之助は、埋め立てで造成された湾岸エリアに工場を誘致するべく動き出した。こうして誘致されたのが、川崎製鉄(現・JFEスチール)の工場だった。川口は川崎製鉄の工場誘致に道筋をつけたところで、国政へと転身。
京葉臨海鉄道の設立
後を任された県知事の柴田等も、京葉臨海工業地帯の振興に力を注いだ。柴田県政は高度経済成長のど真ん中にあたるため、千葉県は目まぐるしく変貌した。川崎製鉄の進出を皮切りに、千葉県の東京湾沿岸に大工場が立ち並ぶようになる。企業は次々に進出してきたが、湾岸の道路整備が追いつかない。そのため、工場からの物資輸送、工場までの物資輸送に支障が出る。貨物列車を走らせようとしても、総武線は旅客列車だけでパンク寸前に陥っていた。そのため、貨物列車の増発は難しかった。
湾岸エリアに立地する工場群への物資輸送を円滑にするべく、1963年に千葉県と進出企業によって京葉臨海鉄道が設立される。当初の構想では、京葉臨海鉄道は浦安町(現・浦安市)から東京湾岸をぐるりと走り、富津町(現・富津市)に至るルートが検討されていた。これは、現在の京葉線と京葉臨海鉄道とを足したような路線だった。
京葉臨海鉄道は着実に千葉県の工業化に寄与する。また、驚くほどのスピードで千葉県の東京湾沿岸は埋め立てられ、発展を遂げる。
しかし、それでも千葉県選出の国会議員は満足しなかった。千葉県の財政が逼迫していたこともあり、柴田県政では開発には限界があった。京葉臨海工業地帯の開発に暗雲が立ち込めた頃、千葉県は三井不動産に協力を要請する。
この時期、千葉県と三井不動産とを結びつけたのは柴田県政で副知事を務め、後に千葉県知事に就任する友納武人だった。
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