人気住宅街「南船橋」、昔は娯楽の中心地だった かつてのヘルスセンター、今は「ららぽーと」

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谷津遊園の名前を全国区に押し上げたのが、1934年の全米選抜野球チームと大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)との試合だった。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁する全米選抜野球チームは全国各地を回り、大日本東京野球倶楽部と対戦した。

ベッドタウンとして発展する南船橋駅には、2002年から京葉快速が停車するようになった(筆者撮影)

この巡業を機に、日本でもプロ野球発足の機運が高まる。メジャーリーグと対戦した大日本東京野球倶楽部は、谷津遊園内のグラウンドで練習を積んでいた。そうした事情から、京成と読売ジャイアンツは深い関係を築く。そのほか、谷津遊園内には阪東妻三郎率いる阪東プロダクションが撮影所を構えてもいる。

遊園地を活用した沿線開発という京成のもくろみは見事に成功したが、戦時色が濃くなると谷津遊園は休園に追い込まれた。

戦後に谷津遊園の営業を再開させた京成は、規模拡大のためにに動物園舎を新築したほか、屋内遊技場も建設した。また、夏の海水浴だけではなく、秋の目玉ともなる菊人形展も開催するようになった。

東洋一を誇ったバラ園は、1957年にオープン。1982年に谷津遊園は閉園してしまうものの、バラ園を惜しむ声は大きく、現在に至っても習志野市が受け継いでいる。

南船橋をエンタメタウンに成長させたのは、京成の谷津遊園だけではない。1950年には船橋競馬場が開場。大人も熱狂できる街になった。

船橋ヘルスセンターが開業

谷津遊園が人気を博す中、1955年に市境を挟む位置に船橋ヘルスセンターがオープンする。船橋ヘルスセンターは、千葉県や船橋市が推し進めていた東京湾の埋め立て造成地につくられた。

もともと船橋市は同地をガス田として活用する方針だったが、試掘をしていたところに温泉が沸き出したため方針転換。温泉を核としたテーマパークの経営に乗り出す。

京成によって一大レジャーランドとなっていた南船橋駅の一帯は、船橋ヘルスセンターがオープンしたことでその色をさらに濃くした。

船橋ヘルスセンターは朝日土地興業が運営していたが、朝日土地興業はその後に三井不動産と合併。このとき、南船橋駅は姿かたちも現れていないが、ここから南船橋駅は三井不動産の牙城として発展を始める。まさに、ここがターニングポイントだった。

船橋市のみならず千葉県の戦後をたどる上で、三井不動産の存在を抜きにして語ることはできない。それほど、千葉県と三井不動産は二人三脚で突き進んできた。

明治期、船橋は農業と漁業が主産業だった。昭和に入ると、軍事関連の施設が増えていく。それでも、戦前期までの船橋は田畑が広がる田舎町といった趣だった。

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