人気住宅街「南船橋」、昔は娯楽の中心地だった かつてのヘルスセンター、今は「ららぽーと」

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現在、三井グループ内でリーダー格とされる三井不動産だが、当時は“土地を持たざる不動産会社”と揶揄されるような、不動産業界でも大きな存在とまでは目されていなかった。

当時の社長、江戸英雄は三井不動産を業界トップクラスへと躍進させるため、千葉県から持ち掛けられたビッグプロジェクトをふたつ返事で引き受ける。

三井不動産に湾岸開発を託した柴田だったが、いたずらに海を埋め立てることにはためらいもあった。そうした柴田の姿勢に対して、千葉県出身の大物国会議員だった水田三喜男や川島正次郎は、「農林省出身の柴田は、千葉県を開発する気がない」と断じ、柴田の追い落としをもくろむ。

柴田が4選を目指した知事選で、水田や川島は日本住宅公団の初代総裁を務めた加納久朗を対抗馬に擁立。その結果、柴田は落選。千葉県政から去った。

東京湾に新都市を建設する構想

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新知事に就任した加納は、以前から東京湾を埋め立てて新たな都市を建設する“ネオ・トウキョウ・プラン”という奇想天外な構想を発表していた。積極的に東京湾の埋め立てに取り組むと思われていた加納は、知事就任から110日で急逝。後任には友納武人が就き、千葉県の湾岸開発は既定路線になっていく。

友納は“開発大明神”と呼ばれるほどの東京湾の埋め立てや開発政策に意欲的だった。友納県知事を先頭に、千葉県主導による東京湾の湾岸開発が着々と進められていく。千葉県の東京湾が工業化するのに伴い、船橋市にも工場労働者が多く住むようになる。

人口の急増に対応するべく、1960年には日本住宅公団が船橋市内に団地を建設。以降、船橋市内には次々と大型団地が建設されていった。京成も沿線開発のために、千葉県内のあちこちで団地を建設。これらの団地住民が京成で通勤するようになる。

湾岸エリアでもある南船橋駅一帯では、1969年に日本住宅公団が若松団地を建設。若松団地は南船橋駅の目の前にあるが、竣工時に京葉線は建設されていない。

1970年代に入ると東京のオフィスに通勤して寝るためだけに船橋に帰ってくる市民、いわゆる千葉都民が増えていく。

千葉都民の通勤用に、総武線のほか1969年に東西線が西船橋駅まで延伸する。しかし、それだけでは急増する千葉都民の通勤需要をさばくのは難しかった。そうした背景から、1975年に貨物線として開業した京葉臨海鉄道を旅客化してほしいという要望が強くなる。

これを受け、貨物専用線として構想された京葉臨海鉄道の一部が旅客化。京葉線として日の目を見ることになった。

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