「高校3年間精神科病院に通い、鉄格子越しに患者さんと話をしました」
彼らが病院に入るまでの話は壮絶だった。例えば酒の飲み方も半端ではない。家族や近隣住人に多大なる迷惑をかけ、周りを不幸にしてきた人たちがほとんどだった。中には、人を殺めてしまった人もいた。
「でも彼らと話しているうちに、彼らに対して尊敬の念をいだくようになりました。
例えば病院の医者に対する評価にしても、じつに芯を食ったことをいうんです。外ではベンツに乗って威張ってる医者が、病院内では実はほかの職員から軽蔑されているダメな医者だって本性を見抜いてる。彼らは職業とか肩書に振り回されないんですね。
患者さんたちと話をするうちに、生きていくうえで誰かに媚びへつらう必要はないと考えるようになりました」
高校卒業後は、一浪して東京の大学に進学した。
「適当な大学でしたけど、いい教授につくことができました。かつて東大でスーパーコンピューターを作った人でした」
インターネット時代が到来するはるか以前だったが、先生は「すべてパソコンで金になる時代がくる」と見越していた。
提示された「生きた勉強」
「先生にはどこか精神科病院の患者さんと近いものを感じました。先生自身も、ちょっと外れたら入院していたかもしれないとおっしゃってました(笑)」
世はバブル景気の終わり頃で、まだベンチャー企業は流行していなかったが、先生は「お前は大学をやめろ。そして裸一貫で会社を立ち上げてみろ。それが生きた勉強になる」と押川さんに言った。
「『何をやればいいんですか?』って聞いたら、『それを考えるんだ』って言われました。そこで設備投資がいらない警備会社を作ることにしました」
大学在学中から、ガードマンのアルバイトをした。媚びずに評価をえるには、人の何倍も仕事ができなければならなかった。
押川さんは、4人ぶんの仕事を1人でこなした。そのため押川さんを雇っている業者には重宝がられた。
「当時の土建屋、建築業者は八百長ばっかですからね。4人でやったことにして、浮いたお金は彼らが自分のふところに入れてしまう感じで。私には、残業していないのに残業代をつけてくれたりしました」
そして23歳のときに、警備会社『トキワ警備』を作った。法人登記するお金がなかったため、許認可をもらうのに難儀をした。
神奈川県警察本部の防犯課(当時)に行き「半年後には有限会社にしますから」と直接約束して、許認可をもらった。
「社会にもまれながら、先生が言っていた『生きた勉強』というのはこういうことなんだなと身にしみて感じました」
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